天正18年4月20日 松井田城攻めの前に信幸兄上が裸攻めする羽目になった話

信濃史料より現代語訳しました。
~~~~~~~~~~~~~~~

北陸道の総指揮官として前田筑前守利家と上杉喜平次景勝、そして関東の案内役として我ら親子が今度の戦の先陣を仰せつけられました。
我が軍は3月上旬に小県郡を出発し、残雪を踏み分け12日に軽井沢の陣に到着いたしました。

それから松井田城の見回りのため、愚息伊豆守が近習の侍を30人余り従えて碓氷峠を下り町の入口まで近づいた所、松井田城城代の大道寺新四郎配下の小隊を発見、なし崩しに戦いが始まりました。「昆」の兜をかぶった敵兵が城から7、800騎ほど出てきて三方向から攻め立てられ戦う事になったのです。

こちらは伊豆守を始めとしてどの兵士もみな真裸(甲冑を着ていない様子)で、弓も鉄砲一丁も持っておらず、頼みとする所の武器は太刀・長刀(なぎなた)・槍など、それらを限界まで使って攻め合い苦しんでいた所にその上、敵の依良入道宗源(信州佐久郡の住人)が手勢数十人を割き、坂本の民家に放火しこちらの退路を遮断しようとするのに気づきました。
そこで我が家の家来である吉田庄介と富沢主水助が正面から斬り込み、敵兵を悉く追い払い依良入道宗源を馬上より突き落とし首を討ち取りました。この勢いでもって士気も盛り返し敵に向かい、80人余りを討ち取り勝利を得ましたので残党は悉く敗軍となりました。
そのまま敵を城門の外まで攻め続けてから勝利の鬨の声を上げ、その後に伊豆守に北陸道の通路の平定を申しつけました。

今回討ち取った依良入道宗源という人物は甲・上・信の三州に知れ渡っている侍であり、この首を手土産として差し上げます。
詳しい事は使者の春原勘介と松沢五左衛門が口上にて申し述べますので、このむね是非ともご報告をしてください。 恐恐謹言

  天正18年4月20日
                           真田安房守昌幸
  浅野弾正少弼長政殿
  石田治部少輔三成殿

~~~~~~~~~~~~~~~~~

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

てるてる

最近の記事
最近のコメント
最近のトラックバック
月別アーカイブ
カテゴリー
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

ブログ内検索
RSSフィード
リンク
TweetsWind