永禄12年12月 蒲原城攻め関連の文書

信玄公が「勝頼が戦場に突っ込んでいって心底肝が冷えたよ怖かったよでも勝っちゃったよ不思議。」と書き送った書状と、同じ戦について真田幸綱・信綱父子に報告した書状。
読み比べると、勝頼様が戦場に突っ込むのは武田家では周知の事なんだなあと思えます。

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徳秀斎あての書状(笹本正治著 武田勝頼p28)

蒲原城を落とした事について早々に状況をお問合せくださり嬉しく思います。

最初は12月6日に蒲原城の宿に放火しました。
もう決まりきった儀式の様なものですが、四郎勝頼と甥の左馬助信豊は思慮が足らないので工夫も何もなく城へ攻め登りました。
本当に恐怖を感じましたが不思議な事に軍に勢いがつき敵方を崩し、城主の北条氏信兄弟をはじめ、清水・笠原・狩野介やそれに従う兇徒、総じて蒲原城に立て籠るすべての兵を残らず討ち捕らえてしまいました。

この蒲原城は街道の中でも一番道が険しく通過するのも難しい場所でありました。このように瞬く間に目的を達するなど、人間が出来る働きではあり得ません。
そればかりか、こちらの味方は一人も病気などすることも無く過ごしております。どうぞご安心ください。

12月10日 
                           信玄

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同じ戦場の話を真田幸綱・信綱父子に送った物

(信濃史料 巻13_3 52)

急いで知らせます。今日6日、蒲原城の城下に放火をした所、在城していた兵達が皆出兵してきて出くわしたので一戦を遂げ勝利を得、城主北条進三郎をはじめとして清水・狩野介を残らず討ち取り瞬く間に城を乗っ取りました。

本当に前代未聞の戦でした。

なお、蒲原城へは山県三郎兵衛昌景を入れます。
この文面のとおり、目的は達成したので安心するように。   恐惶謹言


  12月6日                信玄
 一徳斎
 真田源太左衛門殿

天正18年4月20日 松井田城攻めの前に信幸兄上が裸攻めする羽目になった話

信濃史料より現代語訳しました。
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北陸道の総指揮官として前田筑前守利家と上杉喜平次景勝、そして関東の案内役として我ら親子が今度の戦の先陣を仰せつけられました。
我が軍は3月上旬に小県郡を出発し、残雪を踏み分け12日に軽井沢の陣に到着いたしました。

それから松井田城の見回りのため、愚息伊豆守が近習の侍を30人余り従えて碓氷峠を下り町の入口まで近づいた所、松井田城城代の大道寺新四郎配下の小隊を発見、なし崩しに戦いが始まりました。「昆」の兜をかぶった敵兵が城から7、800騎ほど出てきて三方向から攻め立てられ戦う事になったのです。

こちらは伊豆守を始めとしてどの兵士もみな真裸(甲冑を着ていない様子)で、弓も鉄砲一丁も持っておらず、頼みとする所の武器は太刀・長刀(なぎなた)・槍など、それらを限界まで使って攻め合い苦しんでいた所にその上、敵の依良入道宗源(信州佐久郡の住人)が手勢数十人を割き、坂本の民家に放火しこちらの退路を遮断しようとするのに気づきました。
そこで我が家の家来である吉田庄介と富沢主水助が正面から斬り込み、敵兵を悉く追い払い依良入道宗源を馬上より突き落とし首を討ち取りました。この勢いでもって士気も盛り返し敵に向かい、80人余りを討ち取り勝利を得ましたので残党は悉く敗軍となりました。
そのまま敵を城門の外まで攻め続けてから勝利の鬨の声を上げ、その後に伊豆守に北陸道の通路の平定を申しつけました。

今回討ち取った依良入道宗源という人物は甲・上・信の三州に知れ渡っている侍であり、この首を手土産として差し上げます。
詳しい事は使者の春原勘介と松沢五左衛門が口上にて申し述べますので、このむね是非ともご報告をしてください。 恐恐謹言

  天正18年4月20日
                           真田安房守昌幸
  浅野弾正少弼長政殿
  石田治部少輔三成殿

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