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1600年7月31日 石田三成からの書状

リクエストを頂いたので訳してみました。
石田三成は昌幸公が味方してくれると疑ってなかったのかな。


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7月21日付けの書状が27日に近江佐和山城に届きましたので拝見いたしました。

一つ、書状の覚書と御使者の口上については心得ました。

一つ、挙兵のお話を前もってお知らせしなかった事をお怒りになっていらっしゃるでしょうね。しかし、徳川家康が大坂にいる間は侍一人一人の心を見極める方法も無く、己の意思を言葉にする事を遠慮するしかありませんでした。
特に貴殿(昌幸公)は公儀(豊臣政権)を疎略にする事の無いお方です。世の中がこのようになった上はどうして何もしないでいられましょう。皆、隠密に話を持ちかけても私の意見が通らない事を思い、貴方お一人に打ち明けてもしょうがないと考えてしまい、今は後悔しております。お恨みに思われてもやむをえないと思っております。
しかしながら、もはや悔やんでいる場合ではございません。どうか太閤様のご懇意をお忘れなく、この度は豊臣家へご奉公していただけることを心より願っております。

一つ、大坂がどのようになっているか、ほとんどの事は御使者から聞いておられると存じます。まずは真田家の奥様方は大谷刑部が保護いたしましたのでご安心ください。長束正家・増田長盛・前田玄以も協力してくださいました。我らの兵は漸く昨日伏見まで進軍いたしました。あわせて大坂の武家屋敷にも人をやりご家族を保護しております。

一つ、この度大坂から東国へ出陣する大名達は大坂の動きを見てことごとく帰陣いたしますので尾張・美濃にて人を止め、一人一人の考えをを聞き出し秀頼様をぞんざいにしないことをすっかり明らかにし帰国するように努めたいと思います。

一つ、おおむね変わった事は無く、おのおのの覚悟が一つになったときに戦いを始めます。

一つ、細川忠興殿は太閤様がお亡くなりになった後に自ら徒党を組んで国乱を企てたため、居城である丹後国へ兵を使わして城を乗っ取りました。父親の細川幽斎の城にも攻め掛かり二の丸まで打ち破った所、禁中(天皇家)から命だけは助けてやって欲しいと命令が下りましたので命は取らず丹後国は平定している最中です。

一つ、今年の年末から正月の間は関東平定のために兵を出す予定です。そのために九州・四国・南海・山陰道の人員を八月中に限り近江に陣取り、兵や兵糧をそちらへ送る準備をしております。

一つ、前田利長も豊臣家に対して疎略な扱いをするつもりは無いとの事。そうは言っても老婆(前田まつ)を江戸へ人質にやっている間は家康を疎略にしない態度を取り続けたいので豊臣家に気を使わない態度も取るという事をお心得置きくださいとおっしゃっていました。

一つ、(昌幸公が)箇条書きでお尋ねになられたことは御使者に返答いたしました。また、私が箇条書にして申し上げた項目は御使者の口上に納得した物だとお思いください。

一つ、こちらから三人の使者を遣わしました。その内一人は昌幸公の返事が決まり次第『案内者(事情に精通している人)』を付けて私の元へお返しください。残る二人は会津への書状をもたせていますので昌幸公に連なる者を添えて沼田越しに会津へと遣わしていただきたい。その後、昌幸公の下へ返事を持ち帰ったときは同じように『案内者』を添えて大坂までまで寄越してください。お待ち申し上げております。

一つ、頭州(信幸)・左衛門佐(信=j殿にも別紙でもってお話しているとは言えども貴殿からも言っていただけるものと思っています。詳しくは御使者におっしゃって頂きたいです。恐惶謹言・

7月31日
  真房州 御報                       三成
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臥せっております

10月の末に体調不良で倒れました。昔治療した虫歯の奥に雑菌の巣が見つかりまして、それが原因でもう2ヶ月患っております。頭痛・吐き気・食欲不振にリンパの痛みとまるで風邪のような症状ですが、これが2ヶ月毎日続くと本当にしんどいですね。

週1~2回のペースで歯医者に通い、歯の中の雑菌を掃除しております。
やっと治療の効果も現れて普段の生活に戻りつつあります。

皆様も虫歯の治療跡にはお気をつけください。
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