風林火山 第47回 決戦前夜 感想

長刀を持ったガクト謙信がセフィロス(FF7 PS ロールプレイングゲームの敵役)に見えたのは私だけでしょうか。

今回は長野殿が身罷られました。
幸隆公、泣いてくれてありがとう。
河原さん、知らせてくれてありがとう。
信綱公、思い出してくれてありがとう。

NHKさん、長野業政公を取り上げてくれてありがとう。
小市慢太郎さんありがとう。最初から最後まで素敵な御仁でした。


成田さんへの非礼を伊勢さんに言及される上杉政虎のシーンが印象的でした。
「関東管領」という地位と戦の実績だけでは人身掌握は難しい。
人の協力を得るにはまず情報というお話でした。

上杉憲政はその事を政虎へ伝えなかったのか。
長尾家家臣団はその事を政虎へ注進しなかったのか。
それとも政虎が聞く耳を持たなかったのか。

来週は川中島ですね。
もう少しで終わってしまうのか・・・残念。せめて信玄公が亡くなるまでこのキャストで見てみたかったです。

妙心寺 大法院

先日の土曜日に「玉姫街」の和泉様と妙心寺 大法院へ行ってきましたv

このお寺も真田家の菩提寺でありまして、信幸公の御位牌があるのですねvv
秋と春の特別公開の時にしか入れないので、今回行く事ができてとてもラッキーでした。

大法院でお抹茶と蒸し羊羹を頂きながら
「蒸し羊羹なら昌幸公も口に出来ましたね~v寒天の羊羹なら信幸公の時代ですね~~vv」
なんてお話をしてきました。
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その後で、ゆっくりお庭を眺めながら信政君と二代目小通の話をしたり、信幸公が孫をどのくらい可愛がったのか想像したり、まったりと江戸初期の真田家についてお話を伺いましたv

さて、肝心の御位牌ですが
「本堂に御参りをすれば、信幸公にも御挨拶をしたことになりますから。」
との事で、実物を拝見することは叶いませんでした。
本堂の隣にある大きな箱が信幸公の御位牌かもしれない・・・と思いながら御挨拶を済ませました。

妙心寺には他にも石田三成公ゆかりのお寺や織田信長公のお墓や信玄公・勝頼公のお墓もあるのですが、どこのお寺も非公開であります。
お寺の外から
「この中に御館様のお墓が!」
と塀を眺めてきました。

妙心寺のあとで、二条城へ行き放鷹のイベントを見てきました。
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現在残っている鷹狩りの流派の始まりは信州の祢津流なのだそうですvvv
そうです、幸隆公と一緒に上州へ逃げて、幸隆公と一緒に武田家へ仕官したあの祢津家の松軒雲さんが広めた流派ですよ!

いいですよね~v真田の縁者と鷹vvv

放鷹のイベントはものすご~~~~~~くかっこよかったです!
鷹が獲物をキャッチする瞬間とか、ものすごい迫力なんですよ!!
一瞬の凄まじさというのでしょうか。素敵でしたvv

そして、鷹の尾羽についている鈴がとても可愛かったですvv

鷹の羽は一年に一度生え変わるのだそうです。
幸隆公も抜けた羽で特別な弓矢とか作ったりしたのかもしれませんね。

和泉様、いつもお誘いありがとうございますv
今回もいろんなお話ありがとうございましたvv

柳生の武家屋敷

柳生までドライブをしてきました。
お目当ては柳生茶屋の「茶粥」です。
以前食べた時に、その美味しさと胃への負担の軽さに驚きました。
久しぶりに食べてもやはり美味しく胃に優しかったです。

その後、柳生家家老「小山田氏」の屋敷を見学。
IMG_1588.jpg

この「小山田氏」は元々武田家の家臣だったそうなのですが、詳しい事はわかりませんでした。

武家屋敷の中に小説家「山岡荘八」氏の歴史談義の一部が貼ってあるのですが、その中に
「但馬が将軍家光に進言したため、島原の乱に伊豆守が派遣されることになった。」
との一文が。
あれ??信幸兄上は島原の乱に参戦してたっけ??
それとも松平伊豆守信綱の事かしら??

後で調べよう。

次に「まりしてん」の碑から柳生の里を見回してきましたv

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この土地は本当にお日様に愛されていて良いですね。
本当に、陽の土地だと思いますv

その後で、陣屋跡を見学して帰ってきました。
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天気に恵まれて本当に楽しかったですv

家計簿・・・・

ちょっとばかり日常の話を・・・。

今年は引っ越ししたり実家に帰ったりとバタバタしていましたので、毎月家計簿をつけるだけで終わらせてしまったのですね。
先ほど集計を取ってちょっと青くなりました・・・。

どんだけ丼勘定してんのよ、自分!

家計簿は  
  つけてるだけじゃ  
      意味が無い

あちこちの家計簿サイトさんを読んで反省。
もっとしっかりしようと心に誓ったのでした。

高野山へ行ってきました。

「ちろり」の大蛇丸様と「玉姫街」の和泉様と高野山の蓮華常院へ行ってきました。

お二方とも本当に博識で、ちょっとした雑談もとても為になりましたv
矢沢家の偉大さと素敵さも再認識。やはり矢沢の大叔父様は素晴らしい武将ですvvv
甲陽軍艦の楽しさも教えていただきましたv
今まで読む気が起きなかった甲陽軍艦ですが、きちんと読みたくなりました。

高野山へ登る時に、ちょっと回り道をしてもらって憧れの「ニオツ姫神社」へ寄ってもらいましたv
大好きな小説の舞台でもあり、真田信繁公も行きたいと言っていた場所でしたので今回訪れる事ができてとても幸せでした。

高野山はちょうど紅葉が始まった所で、あちこちでカメラマンがシャッターを切っていました。今年は紅葉が遅いそうです。


夜に、天野酒を飲みながら史料を読みながら延々と真田家話に花を咲かせました。
もう、もう、本当に楽しかったです。

歴史というのは本当に奥が深い、といろいろ感動しました。

大蛇丸様、和泉様、本当に楽しい時間をありがとうございました!

唐沢杢之助メモ

唐沢 杢之介 久幸(?年~1565年)

 ・岩櫃城主 斉藤家の家老 「富沢 但馬 基幸」の末子。
 ・幼名「次郎」 別名「大炊助」
 ・岩櫃城主「斉藤 越前 憲次」に「唐沢」の苗字と沢渡村の知行をもらう(憲次には「縁起のいい子」として生まれたときから可愛がられていたらしい)。


 ・永禄5年 (1562) 
   岩櫃城主「斉藤 憲広」の命で白井城へ援軍を請う使者として出向く

 ・永禄6年(1563)9月、
   斉藤家の家臣として長野原城攻めに参加。この戦で幸隆の弟「常田 新六郎」死亡。
   武田家の岩櫃城攻めに対向し大戸口の守備に参加。敗戦。
   
 ・永禄7年(1564)
   次男「お猿」を武田家に人質に出す。

 ・永禄8年(1565)11月
   嶽山城攻めに参加。城に夜襲をかけたさいに一の木戸で「早川 源蔵」と遭遇。討ち死。かたきは「湯本 善太夫」が討った。

 ・永禄9年(1566)3月 
   信玄から「お猿」へ「父、杢之助が嶽山一の木戸口で討ち死にした忠節には感じ入りました。唐沢家の知行は今までどおり保証しましょう。」と感状が送られる。

嶽山城攻めで「唐沢 杢之助」が死んだ後、「お猿」が後を継ぎ「唐沢 玄蓄」を名乗る。以後「唐沢 玄蓄」は代々襲名されて行く。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
参考文献 加沢記 真田忍者と中之条町

加沢記には次男「お猿」しか登場しないのですが、唐沢家の長男はどうなったのでしょう??
唐沢家略系図には杢之助と玄蕃(お猿)の間に一人いるんだけどなあ。
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