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信玄公から長野業政公への手紙

「安中市史 P809」に掲載されていた書状です。

~~~~~~~~~~~~~~~~
去頃者上杉家諸将、於笛吹峠一戦之間、就其貴殿御同心無之段、
小幡尾張守・真田弾正忠及聞御噂申、依旧縁味方於参令感心候、
忠信迄可預御案内、猶可為本望候、恐々謹言

11月15日    武田晴信(花押)
  長野信濃守殿

~~~~~~~~~~~~~~~


天文15年の書状とされているので、武田家が志賀城を攻略した後の話のようです。
一行目の様子からして(一行目の訳 先日、碓氷峠で行った上杉家との戦の間、貴殿が参戦されなかったとの噂を小幡信定と真田幸隆から聞き及びました)幸隆公は長野業政公が参戦していなかったと知っていたのですね。

小幡信定が長野家を裏切って武田家に就いたのは天文22年とされています(その後、長野業政公に城を攻められて甲斐へと落ちます)。それよりも随分前から武田家に接近していたのね。そしてそれをばらされていたのね・・・・。

武田家・長野家の両家公認の裏切り??
この人も二重スパイだったのかしら??
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風林火山 第37回 母の遺言 感想

関西に帰って来ました。
実家では熾烈なチャンネル争いに負けて大河ドラマが見れなかった事も多かったので、現在大急ぎで録画したものを見ています。

北条家に追い詰められた上杉憲政に、越後行きを進める長野業政公が素敵でした。
「一緒に来るか」と訪ねる憲政への返答は
「上州にて、関東管領様の御帰還をお待ちしております。」
と、つれないものでした。

私には
「あんたがいなけりゃ個々の上州勢は生き残るよ。長野家は自分がいる限りは大丈夫ですから、さっさと長尾家に行ってください。」
と聞こえました。

言うだけ言ってさっさと箕輪城へ帰ってしまった業政公ですが、この後の嫡子が上州に残るという話を聞いたらどう思ったのでしょうね。
止めたのか、自分が越後まで送って行ったのか、嫡子を保護したのか・・・。

さて、嫡子立若丸はお父さんが越後に逃れてすぐに
「全軍で打って出て討ち死にしよう!」
と無茶を言い出しました(これにはびっくりしました)。
この人には、どこかで隠れ住んで援軍を待って蜂起するという考えは無かったのですね。
自分が北条軍をひきつけてお父さんを無事に逃がしてやろうという考えだったのかもしれませんが、たまらないのは妻鹿田さんです。

「嫡子を守る」という方針は、後の一族の生き残りをかけた考えだったでしょう。
嫡子と共に援軍を待ち、関東管領家復興の後の栄華も考えたでしょう。
嫡子を旗印に掲げ、長野家と手を携え、長期的に北条家の北上を防ぐ計画もあったかもしれません。
決して嫡子と共に自爆することではなかったでしょう。

妻鹿田さんとしては今は身を潜めて欲しかったのではないでしょうか。

妻鹿田さんが、
「もう駄目だ。自分では御嫡子様を止められない。こうなったらいっそこいつを北条へ売って生き延びよう!」
と決めるに至った経緯を見たかったなあ。

立若丸を斬った後の、北条氏康の表情が印象的でした。
若い立若丸を斬ったという罪悪感。
自分の所へ投稿してきた武将の首をはねる口実として若い立若丸を利用した気持ち悪さ。

戦国武将としての氏康公と人間としての氏康公と両方を一度に見れました。

長尾家に辿り着いた後の上杉憲政にちょっと笑いました。
いろんな条件と時間が積み重なって構成された人格が、あの憲政公なのでしょう。
ここまできちゃったら、もう修正は聞かないのだろうなあ・・・。
それでも礼を尽くす景虎も、ものすごい頑固ですね。
自分の信念にとても正直。
景虎は憲政個人に対する感情と、規律に対する感情との折り合いはどうやってつけているのでしょうね??

最後に、真田家の一家団欒が良かったですv
信綱公も、長野業政公への恩を覚えていたんですねv
きっと折に触れては両親が語っていたに違いない。
ドラマの真田家は本当に癒やし系ですね。

忍者のお墓

前々回帰省した時に、割田下総の墓を探したので今度は田村左次衛門
清隆の墓を探してみました。

田村左次衛門清隆は大阪夏の陣で真田信吉隊に所属。
諜報活動の功績により、褒美をもらっています。
田村家の家系図や言い伝えによると、最初は真田左門佐信繁公に使えていたとの事。
大阪の陣の後に帰農し、しばらくしてから謎の自害をとげます。
(参考文献 真田忍者と中之条町)

お墓はものすごくわかりにくい場所にありました。
こんな所入っていいの?という細い道を通り、山道を歩き、地元の人の墓地の中へ入るのです。
田村左次衛門清隆の墓

この看板の左にお墓が建っていました。
法名が2つ書いてありました。
ひとつは左次衛門の法名として、もうひとつは誰のなんだろう?

自害といい、お墓といい、謎の多い人です。

潜竜院跡

東吾妻町原町にある御菓子屋さん「藤井屋」へ買い物に行きました。
(「藤井屋」の御店主は、長野業政公の家来「上原 政右衛門」の御子孫なのだそうです。)

藤井屋さんのお菓子には「岩櫃城」「阿茶一服」「政右衛門」など歴史に関係している名前がつけられていてとても楽しいのです。

さらに真田ファンに嬉しい事に、菓子箱の包み紙が「戦国時代の吾妻地方の地図」なのです。
嬉しすぎて「すごいですね!」を連発したら、レジのお姉さんが素敵なことを教えてくれました。

「郷原駅の近くの小屋って所、あそこの御屋敷跡が整備されたんですよ。」

はて、郷原駅の近くには岩櫃山の登山口くらいしかなかったはず。
何のことだろうと行ってみたら、そこは潜竜院というお寺の跡でした。

まだ岩櫃城が斉藤家の物であった頃、祢津潜竜院という御坊さんがお寺を建てました。潜竜院は真田幸隆公の側の人間でした。
「真田忍者と中之条町」という本によると、真田昌幸公はこの潜竜院という寺を情報を集める基地のひとつとして使っていたようです。
真田昌幸公が、武田勝頼公のための屋敷を作ったのも、この潜竜院の中だったと伝わっています。

潜竜院の跡地はきれいに草が刈られていました。広い広い跡地の一角に石垣が残っていました。これが勝頼公の屋敷になるはずだった建物の跡なのでしょうか?
潜竜寺跡 勝頼屋敷跡?

屋敷跡の真上には、岩櫃山の巨石が迫ってきています。
潜竜寺跡からみた岩櫃山

写真ではわかりにくいですが、ものすごい迫力の場所なのです。
昌幸公はこんな絶景ポイントに勝頼公をお迎えするつもりだったのだなあ。

この場所から「旧赤井道」という登山道を登ると5~60分で岩櫃城本丸にたどり着きます。

今日は登山の予定ではなかったので登りませんでしたが、いつかこの道を通って岩櫃城本丸まで行ってみたいものです。

牛の糞峠

吾妻郡高山村からみなかみ町(旧月夜野町)へ抜ける県道36号という道があります。
その昔は参勤交代の行列が通る街道だったそうです。

この道、地図上では「赤根峠」と表示される峠道なのですが地元の人間は「牛の糞峠」と呼びます。

なぜなら、峠のあちこちにこんな岩があるから。
牛の糞

確かに、牛のウンコそっくりの形をしています。

はるか昔、榛名山や赤城山が噴火をして流れ出た溶岩が冷えて固まり、風雪に削られ、このような形で残っているのです。

これらの岩は昔の人々にも牛のウンコの形に見えたようで「加沢記」「吾妻記」「沼田根元記」には「赤根」という地名は無く「牛の糞」という地名で載っています。

いったいいつから「赤根峠」に変わったのかな~~と、通るたびに思ってしまう道なのでした。

旅行してきました。

それは父の一言で始まりました。
「連休だから旅行へ行こう。」
と、いうわけで東北地方へ行ってきました。
最初に向かったのは岩手県平泉町。
義経が身を寄せた奥州藤原氏の建築した金色のお寺「中尊寺」を見てきました。

つづいて、坂上田村麻呂が建築したといわれる毘沙門堂を見学。

その後で厳美峡へ行き、伊達政宗公が植えた100本近い桜を見ながら空飛ぶ団子を食べてきました。
かっこう団子

写真のかごの中に団子と御茶が入っていて注文に応じて茶店から飛んできます。中身は餡子とゴマとみたらし団子でとてもおいしかったです。

その後、碁石海岸へ行き伊達政宗公に献上されたという碁石そっくりの石を触ってきました。

二日目には日本三景の松島を通過し、塩釜市の塩釜神社へ参り、ちょっと南下して多賀城市の多賀城跡(坂上田村麻呂とアテルイの戦争で舞台となったお城です)を見学。
てるてる「ここまできたら青葉城もみたいなあ。」
父・母 「やだ!何にも残ってないし、本丸跡は東北大学の中だから見れないんだよ!」
家族の反対に合ったので青葉城はあきらめて伊達藩御用達だった青根温泉へ。伊達政宗公もお気に入りの温泉で、藩主の常宿だった旅館には今でも政宗公の書などが残っているそうです。
そんな高級旅館には入れないので、すぐ近くの共同浴場「じゃっぽの湯」に入ってきました。
じゃっぽの湯の入り口にはこんな素敵な旗が立っていました。

おむすび政宗

泉質は「単純アルカリ泉」。さらっとするお湯でした。

その晩に家族会議を開きました。
3日目は帰ることに集中したいからどこかひとつだけ見て帰ろう。
てるてる「白石城みようよ。天守閣再現されてるし、片倉小十郎の城だよ!」
母   「碧玉渓見たい!渓谷を歩きたい!」
妹   「どこでもいいよ。(車酔いのため、一人半死人状態)」
父   「阿武隈洞に行こう!鍾乳洞見ようよ!」

結局、運転する父の意見がとおり福島県の阿武隈洞へ。
(何故か私だけ)2回も蝙蝠に衝突されましたが、美しい鍾乳洞でした。

帰りに栃木県の佐野ラーメンを食べる予定だったのですが、途中で道を間違えて佐野市を通り越してしまい食べられませんでした。

今回は戦国の旅ではなかったのですが、行く先行く先に伊達政宗公の御姿がちらちらと見えました(笑)
どんな気持ちで桜を植えたのかなとか、碁石そっくりの石っころもらって嬉しかったろうなとか、温泉好きだったのかな~~と想像するのが楽しかったです。

東北は古代・鎌倉・戦国・宮沢賢治とどの時代を見に行っても楽しいですねv

すごいよ、お母さん・・・。

先日、母とおしゃべりをした時の話です。
縁側で茶を啜りながら幸隆公が女神に助けられたという逸話の話をしていました。

てるてる「それでね、幸隆公を助けてくれた女神様の名前が知りたくて海野宿の白鳥神社まで行ってきたんだけど、白鳥神社に祭られているのは全員男性だったの。」

母 「ふ~~ん。なんて神様だったの?」

てるてる「『ヤマトタケルノミコト』と海野家の始祖の方々。」

母 「ああ、それなら神様かご先祖様が女装して助けに来てくれたんだよ。(自信満々)」

思わずお茶を吹く自分。

母 「だって『ヤマトタケルノミコト』は女装して敵を倒したんでしょ。絶対にそうだって!」

確かに、確かに『ヤマトタケルノミコト』は女装して敵陣に潜入し敵の大将を討ち取っています。
でも、だからって幸隆公のピンチにまで女装してくるか?

母の中の真田家はいったいどんなイメージなのか、非常に気になった一日でした。

大塚温泉はぬるかった。

横尾八幡城を後にして、次に大塚温泉へとむかいました。
普通の民家のような家に「金井旅館」と看板がかかっています。
座敷でTVを見ているおじさんに恐る恐る声をかけて、お風呂の場所を教えてもらいました。

大塚温泉 看板


この看板のすぐ下にお風呂があります。向かって右の建物は混浴で、左の建物は男女別となっています。
(うっかり間違えて混浴の扉を開けてしまい、地元のおじいさんおばあさんに「女湯はあっちだよ~~。」と笑われてしまいました)

大塚温泉は無色透明のアルカリ重曹泉です。
ヒステリーや神経の病気にとても効果があるお湯なのだそうです。
湧き出した時の温度は34℃。温水プールの温度くらいでしょうか。
お湯に手をつけるとほんのり暖かいのですが、入ってみると確かにぬるい!というか寒い!
じっとしていると少し暖かくなるのですが、それも豊富な湯量にあっというまに流されます。
寒いのを我慢して1時間つかり続けます(ぬるゆは長くつかればつかるほど良いのです)。お湯の温度が低くて湯気がでないため、周囲には携帯ゲームをしながらつかっている方もいました。
やっと一時間たって服を着るとあら不思議、体がぽかぽかと温まってきます。そのまま一日中、ず~~っとぽかぽかしっぱなしでした。
この大塚温泉は夏ならば1時間、冬ならば2時間以上つからないと効果がでないそうです。冬にず~~っとつかるには少し根性がいると思います。


「真田藩政と吾妻郡 西毛新聞社」によると、この大塚温泉があるあたりは天正年間に北能登守(小松姫の家老)によって町が築かれたそうです。

吾妻記にはこのように書いてあります。

~~~~~以下意訳~~~~

北能登守は天正17年に田屋という場所へ屋敷を構えて住むようになりました。このときに温泉周辺を整備し、あたりは賑やかな町になりました。
文禄年間にあたり一帯が小松姫の領地となりました。
あたりの地侍たちは全て北能登守に仕えることになり、狩野志摩と狩野和泉が代官となりました。

しばらくは大塚の町も賑わっていたのですが、慶長12年3月に外丸勘蔵という男が火事を出し全て焼けてしまいました。
全てを建て直すことも出来なくて、人々はそれぞれに家を作り直しました。
勘蔵は町で暮らしていくことが出来なくなり、どこかの国へと去っていきました。

この頃までは大塚の温泉も賑わっていたのですが、温泉で働いていた下女があまりの忙しさにぶち切れて温泉の中に馬の骨を投げ入れました。
温泉の薬師如来はこのことに御怒りになりいずこかへ飛び去って行ってしまいました。
このため大塚温泉のお湯はぬるくなってしまったのだと伝わっております。
~~~~~~~~~~

群馬県でぬる湯に入ったのはこれで2回目です。(一回目は浅間隠れ温泉の目の湯でした。)
じっくりまったりしたい時にはお勧めです。

横尾八幡城へ行ってきました。

先日の日曜日に岩櫃城へ行こうかな~~と思っていたのですが朝から雨で断念しました。
代わりに車で本丸のすぐ近くまでいける横尾八幡城へ行ってきました。

看板を頼りに小山へ入って行くと、やがて舗装が途切れました。
こわごわ砂利道を進むと左右に現れたのはお墓の数々!
墓地の端っこに、横尾八幡城の登り口はありました。
横尾八幡城 看板

登り口には木で出来た階段があったのですが、長いこと人の来訪が無かったらしく草ぼうぼうでした。
蜘蛛の巣をかきわけながら登ること3分。すぐに本丸跡にたどり着きました。
横尾八幡城 本丸


吾妻記によると、最初は高山村の土豪である尻高家の物でした。
尻高家はその頃、上杉景勝の下に入っていたようです。

天正八年の頃です。
横尾八幡城を攻め落とそうとして、真田家家臣の「割田下総」「富沢豊後」など45人が攻め寄せました。
正面から攻めたところ、あっというまに尻高側の援軍がやってきて負けてしまいました。
その話を岩櫃城で聞いた真田昌幸公は
「つまらぬやつらめ。あれしきの城を攻め落とせないという事こそ不覚というのだ。」
と、非常に不機嫌になってしまいました。
富沢豊前は(今度こそ攻め落とす!)と心に深く誓いました。
天正8年12月のことです。
富沢豊前達は今度は250人もの兵を集めて横尾八幡城の上の山に陣取りました。
このとき、「田村角内」「綿貫隼人」「田村五郎左衛門」の3人は前もって塀を乗り越えて城へ忍び込み、城へ火を放ちました。
それを合図に真田側の兵は鉄砲を2・30発打ち込み、
「攻め入ったら余すな、もらすな。」
「只一時に討ち取れ。」
と口々に叫び鬨の声をあげました。
これに驚いた尻高の兵はわれ先にと眼前の崖に飛び降りました。
何も持たずに飛び降りた人々はそれはもう凄惨なありさまになってしまいましたが、屏風・障子・むしろなどを持って飛び降りた人は一命を取り留めました。
こうして横尾八幡城は真田家の物となり、富沢豊前が預かることとなりました。

天正16年に真田信幸から下された朱印状によると、この城には常に30人前後の吾妻衆が鉄砲や槍を持って詰めていたようです。

加沢記によると、天正17年に北条家が攻めてきたときは、「鎌原重幸」「湯本幸胤」「河原左京棟実」が300人もの兵を連れて援護し、守り抜いたそうです。


真田家御事跡によると、天正16年に横尾八幡城へ入っていた人たちは北能登守(小松姫の家老)の家来と認識されていたようです。
実際に城の中をしきっていたのは狩野家・富沢家の人々だったようです。

万座温泉に浸かってきました。

群馬県と長野県の境界にある白根山は、噴火はしないけど山頂付近で火山ガス(毒ガス。長時間吸うと酸欠に陥り死亡する)を噴出している休(?)火山です。
その山頂から少し南西に下がった所に湧いているのが万座温泉です。
縄文時代から湧いていた温泉で弥生時代には夏の間だけ人が住んでいたようです(あまりに標高が高くて越冬できなかったそうです)。

加沢記によると永禄6年6月に羽尾入道が入湯にやってきて、その隙に鎌原氏に城を乗っ取られています。
知らせを受けた羽尾入道は『今、山を降りて領地に戻るのは危険』と判断し白根山を越えて信州高井郷へと逃れました。

先ほども書きましたが、白根山山頂付近ではあちこちから危険な火山ガスが噴出しています。ガス地帯を抜けても今度は志賀高原という巨大な湿原が待ち構えています。
どこが歩けるのかわからない。どこからどこまでが沼なのかわからない、そんな道なき道を通り抜けないと白根山の長野県側へ下りられないのです。
   
羽尾入道はよく生きて信州へ辿り付けたものだなあと感心しました。

今回は、「湯治の宿 松屋ホテル」のお風呂へ入りました。
浴室が全部木で出来ていて、昔の湯治の風情が楽しめますv
お湯は乳白色で湯花が浮いています。
草津温泉より刺激が少なく、河原湯温泉よりも硫黄臭が少ない、まろやかで入りやすい温泉でした。

帰りに六合村へ立ちより、「冬住の里 史料館」を見学しました。
ここでは明治以前に行われていた草津温泉の文化「冬住み」が詳しく説明されています。

「冬住み」・・・夏は草津温泉に登り温泉宿を営業し冬になると麓の六合村に下りて翌年の準備をする生活のこと

館内には江戸時代から現代にいたるまでの文人・俳人・画家の作品や市川家に伝わる古文書・書籍類が展示されています。
江戸時代の小説「真田三代」の和綴本がほぼ新品の状態で展示されていたのには驚きました。
館長は市川さんといって、元は武田家の家臣だったそうです。
展示品には武田菱のついた漆塗りの矢立もありました。

市川家の文書は草津町史の編纂にも使われているので、今度読んでみようと思います。

追記
市川さんの御話によると、昔は草津と沼田を結ぶ主要街道は暮坂峠であって、吾妻渓谷沿いの道は馬で越えられない難所だったそうです。

幸隆公が箕輪城へ行くときは、どちらの道を通ったのかな?

六合村瓜(くにむらうり)

最近、実家の食卓にはこんな胡瓜が顔をだす。
六合村瓜

やたらと太い。市販の胡瓜の5倍くらいの太さである。
皮を剥くとほんのりと甘い匂いがして、味噌をつけるとおそろしく美味い。
エグミが全然無く、切っただけで(塩もみをしなくても)酢の物やサラダに使えるとても便利な胡瓜である。
てるてる「どこかの地野菜?」
母 「友達から苗をもらったんでお祖母ちゃんに育ててもらったの。六合村の胡瓜だってさ。」

そんなわけで我が家では「六合村瓜」と呼んでいるが、正式な名前はわからない。

六合村と言えば、木曾義仲の家来が落ち延びてきた隠れ里という伝説があったりして、吾妻郡のほかの町村とは少し雰囲気が違う場所である。
戦国時代になると真田家の家臣として湯元善太夫・湯元三郎右衛門などが登場する村だ。

六合村瓜に味噌をつけて齧りながら想像する。
こんなに美味い胡瓜の味しか知らなかったら、湯本家の皆さんは他所の土地の胡瓜がまずくてしかたなかっただろうなあ。
戦で他国へ出かけたら、胡瓜の味でカルチャーショックを受けたんじゃないのかな。だから信幸が松代へ行った時も草津と六合村の領地を離れない一族がいたんだろうな(笑)
あんまりに胡瓜が美味い土地だから河童伝説があるのかな?(←湯本家の子孫が河童を捕らえて薬の作り方を教えてもらったという伝説がある)

そんな事をまったり考えていたら妹にアホと言われてしまいました(苦笑)

六合村へ旅行する予定のある方は、物産館やそこらの御土産屋さんで六合村瓜を買ってみてください!美味いです!

古城へいってきました。

今日は中之条町伊勢町の祇園祭です。
祖母と祭り見物をするついでに真田家と北条家が競り合った城「古城」の城跡を見てきました。

古城


この古城は中之条町伊勢町の竜ヶ鼻踏み切りから吾妻側に向かってまっすぐ進み、パチンコ屋さんの手前で左に曲がるとあります。
駐車場完備で便利なのですが、非常にわかりにくいです。

本丸跡は完全に公園と化していますが、二の丸の一部は残っています。
城の東側には名久田川が流れていました。

この城で攻めてくる北条家を待ち構えていたのだなあ。

吾妻記によると、天正8年に真田昌幸の家臣「池田 佐渡守」と「海野 郷左衛門」「渡辺 茂右衛門」達が北条家側のものであったこの城を落としたそうです。
突然の夜襲に驚いた北条家側の兵達は驚き、崖下へと落ちて行ったそうな。

加沢記によると、天正10年にこの城を預かったのは
・小草野 新三郎  ・蟻川入道  ・高山 ・深井 ・中澤 
・町田
という人たちだそうです。

帰りに中之条町の図書館に寄って、いろいろ見てきました。
ここの図書館は郷土史関係の本が充実していて楽しいですv
これで持ち出し可だったらなあ。

近いうちに小銭を用意して「中之条町史」と「長野市と箕輪城」と「原町史」をコピーしてきたいです。
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