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コメントに関してのお願い

今までマナーのとても良い方ばかりにコメントを頂いてきました。
これまでコメントを下さった皆様、本当にありがとうございます。
管理人の励みとなっています。
またお声をかけていただけるととても嬉しいです。


近頃このブログへ来てくださる方が増えてきました。
そのため、今後のホームページ運営とブログの運営の為にコメントに関してのお願いを「プロフィール」の部分に追加しました。
同じお願いを掲示板のほうにも書きました。
(ご忠告くださりありがとうございました)


基本的に私が書いた話題に関しての感想でしたらどんな話でもほとんどお返事させていただきます。
「この話を読んでこんな想像をしてしまいました。」
という話題も大歓迎です。

ただ、自分の設定や同人ネタを突然話題にすることだけは勘弁してください。お願いします。

このブログは老若男女さまざまな年代の方に読んでいただいています。
コメントと言うものは「管理人個人に向けられた言葉」でありますが、同時に誰でも目にすることができます。
そのことをちょっとだけ考えていただけるととても嬉しいです。
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熱がさがりました

12時間以上眠りました。

医者へ行ったら
「疲れがたまってますね。」
と診断されました。

胃が弱っていたので胃薬だけ処方されました。
明日は仕事に行きます。

熱を出しました

最近、立て続けに身の回りで事件(?)が起こり、疲れとストレスで先日旦那が倒れ、本日ついに自分も倒れました。

なんだか動けないな~と思ったら熱がありました。

旦那と一緒に倒れずにすんで良かった良かった。

体調が良くなったら、ストレス耐性をもっと上げて強い人間になりたいです。

とりあえず寝ます。

真田家の牢屋の話

今日は幸隆公の命日です。こんな日に牢屋の話を書くのも何だかな~と思ったのですが、時間ができたので書ける時に書いておきます。

さきに真田昌幸 便所から密命を下す をお読みください。

さて、昌幸がお小姓木村さんを閉じ込めたのはどこだったのでしょう。真田家の牢屋を調べて見ました。

候補1 桃瀬の水牢
群馬県吾妻郡中之条町の吾妻神社の近くにある遺跡です。
桃瀬の水牢01
桃瀬の水牢02


裏の川から水を引いて貯める仕掛けになっています。

この遺跡にははっきりとした史料はありません。
地元の言い伝えによると、斉藤家・真田家がこのあたりを支配した時に使用されたとのこと。人を吊るして、写真の真ん中の丸い石に立たせて水を流しいれました。一度に5人程の人間を吊るして入れることができたそうです。

・・・牢屋っていうよりも○問施設ですよね・・・
ちなみに、吾妻郡には全部で9つの水牢跡があるそうです。他の水牢がどこにあるのかは私は知りません。

候補2 原町の牢舎跡
この遺跡は人家の敷地内にあるので私は行ったことがありません。
場所はこのへんです

どうも元和2年・岩櫃城取り壊しの際に原町に建設(移築?)された牢屋のようです。

以下、「真田藩政と中之条町 P138」より抜粋
沼田藩には沼田と原町の2箇所に牢獄があって牢守もその近くに住んでいた。
罪人の内で吾妻に縁者がいないものは沼田へ移されるしきたりであった。
原町の牢舎は
・地下2尺(約60cm)の所に一間×三間の三段済みの石垣があり、その中が3つに分けられていた。
・深さは約6尺(約180cm)
・石垣の石を一つ取ると全ての石垣が崩れる仕掛けになっていた。


つまり、一つの部屋が一間×一間×一間(約182cm×約182cm×約182cm)ということになります。正方形の部屋ですね。

ちょっと運動神経のいい人なら天井から逃げられるような気もします。屋根はどうなっていたのかな??

以上が吾妻郡に残っている牢屋です。
どちらも100日間人を閉じ込めるには不向きな牢屋だと思います。
そうなると木村さんはどこに閉じ込められたのか。

江戸時代の刑罰を参考に考えて見ましょう。
「武家の人間を閉じ込める」刑罰は以下の3つ。
右に行くほど罪が重くなります。

「閉門」<「蟄居」<「預け」

・「蟄居」や「閉門」のように自分の屋敷(木村さんの場合は城内の小姓部屋でしょうか)に自ら閉じこもる。
・「預け」のように他人の家に閉じ込められる

木村さんは、盗み聞き事件の後にどんどん出世しているので、水牢や牢獄に入れられずに、誰かの家に預けられていればいいなあと思います。

天正19年の関西の物価

真田幸村は天正14年から豊臣家の人質として大阪で暮らしていました。
大阪や京都や堺の街を歩いた事もあるでしょう。
ちょっと小腹が空いた時に、道を歩く物売りから手軽な食べ物(饅頭や餅や飴)を買うこともあったでしょう

疑問:小遣いをいくら持っていたら買い食いできたのだろう

と、いうわけで図書館へ行って「永運院文書」の一部をコピーしてきました。
目的は宮城豊守家の書状「天正19年買物覚書」

天正19年の関西の物価がわかる買い物リストです!

この書状により、以下の菓子の値段がわかりました。
餅・・・1個1~5文
くす餅・・・5個で40文
まめ飴・・・100個で40文


結論:最低でも1文持っていれば餅が買える。6文銭ならば最大で餅が6個買える

せっかく日本一の大都会に住むことになったのだもの、関西美味いもの食べ歩きをしているといいなあ。

~~~~
この頃はまだまだ物々交換も盛んであった時代です。
出先で持ち合わせが無くても「身に着けている物」と物々交換で買い物できます。
餅や団子と髪結い紐(予備)などを交換したりしていたりして(笑)
いや、大名の子息だから「代金は後で屋敷に取りに来い」というのもありだなあ。

真田幸村が大阪でどんな暮らしをしていたのか。想像するのが楽しいです。

いろいろ乱読中

あれやこれやと史料や研究本を乱読しています。
真田家御事蹟をつまみ食いしてキャーキャー言い、加沢記を読んであれこれ気付き、「真田藩政と吾妻郡」を読んで確認を取り、昔話をつまみ食いして楽しんでいます。



最近読んだ本で一番面白かったのは「京都 乙訓・西岡の 戦国時代と物集女城  中井均・仁木宏著 文理閣」でした。
前編で豪族の屋敷について解説し、中篇で物集氏の歴史について解説し、最後に京都市の西部に散らばる館跡を解説している本です。
「戦のための山城と居住のための館」についてわかりやすく書かれており、大変勉強になりました。

この本の解説を参考にしながら真田氏の「館」を想像してニマニマ笑っています。

歴史って知れば知るほど楽しいなあv

・・・見つけてしまった

所用で出かけた先で、中古品の「戦国無双」を発見。
1500円でした。

・・・欲しい・・・。
噂の御屋形様馬鹿な幸村とか、おちゃめな御屋形様とか、子供な伊達政宗とかを見たい・・・。
それよりももっと見たいのはモブ武将の「唐沢玄蕃」だったりする。

「真田昌幸」もモブ武将だから、うまくいったら「真田昌幸」と「唐沢玄蕃」の主従ショットが見られるかもしれない。
加沢記で、二人の出会いを読んでからずっとずっとこの二人が一緒にいる場面を読んでみたい・見てみたいと思っているのですが、今だに加沢記でしか見たことがない。

値段は問題ない。問題はゲームする時間と気力と体力が不足しているということだ。
うう~~ん。
とりあえず、給料日まで悩もうと思います。

彦根城見聞録 源三郎編

彦根城へ行ったときに発見した源三郎です。

注意:源三郎=真田信幸の通名
源三郎ソフトクリーム

見つけた時は大爆笑しました。源三郎兄上、なんで彦根にいるんですか(笑)
ちなみにこの源三郎は彦根市の老舗のお茶屋「政所園」の製品です。
なんでも大正13年に「源三郎」という方が彦根でお茶を売り始めたそうです。そこから名前を取った「源三郎ブランド」が店内にて販売されていました(笑)

店内の源三郎ワールドです。(お店の了解を得て撮影させてもらいました)
源三郎3部作源三郎ワールド

店のパンフレットによりますと、この源三郎シリーズは全5種。

<源三郎物語>
・初代源三郎 玉露 高貴な香りと贅沢な甘味
・其の二 抹茶かりがね 心安らぐ芳醇な香りとコク
・其の三 抹茶かりがね(玄米入り)かりがねの甘味とコクに玄米の香ばしさ
・其の四 抹茶入り食べるお茶 お料理にアクセントを添えて
・其の五 抹茶ソフトクリーム こだわりの逸品

とりあえず源三郎ソフトクリームを堪能した後に、其の二 抹茶かりがね」を一缶(お店の人に無理言って頼み込んで)買ってきました。
(缶入りの源三郎は個別販売していなかったのです)

お茶の源三郎兄上は、確かに心安らぐ香りにほのかな甘味の上品なお茶でございました(笑)

~~おまけ~~
彦根城のキャラクターひこニャン
ひこニャン

和泉様に教えていただきました。このキャラクターは彦根藩2代目藩主「井伊直孝」さんが日本で初めて招き猫に命を救われたという逸話と「井伊の赤備え」を足してできたのだそうです。
とにかく可愛いですv

ちょぼ

干菓子という種類の菓子がいつから存在するのか私には良く分かりません。ただ、400年前、3代将軍徳川家光が献上された干菓子を食べたという記録が残っているそうです。

果たして室町時代にも現在のような干菓子は存在したのだろうか???

歴史のことは置いといて、美味しいし名前も可愛いのでご紹介します。

菓子司 「鍵甚良房」の「ちょぼ」です。
ちょぼ01


~~解説~~
江戸時代も終わりに近づく1700年代後半の頃です。
関西では「花街」で働く14~5の可愛い少女を「おちょぼ」と呼びました。
そのかわいらしさを表現したのがこの「ちょぼ」。
和三盆でできた干菓子の一種です。
外はパリッと中はしっとり。口の中で溶けていくお菓子です。

参考文献 新聞のコラム「菓子ひなみ」 Goo辞書
~~~~

味は文句なしに美味しいですv

はじめてこの菓子名の由来を読んだときは脳内を妄想が暴走し、
(よーし、ブログのネタにしよう!)
と張り切っていたのですが、「ちょぼ」という言葉が江戸後期の言葉とわかってがっくり・・・。残念!!


追記
和泉様から秀吉の時代に侍女名にて「ちよぼ」が存在することを教えていただきました。
これで思う存分妄想できます!
ありがとうございますv

彦根城見聞録

タイトルに偽りありです。

5月5日に和泉様と彦根城へ遊びに行ってきました。
その時のレポートというか、おしゃべりの記録です。

写真は明日にでもアップしたいです。

妄想も混じってますので読みたい人はこの日記の文末にある「追記を表示」をクリックしてください。

和泉様、充実した一日をありがとうございました!
またご一緒していただけると嬉しいですv

続きを読む

彦根から帰ってきました!

I様、今日は本当にありがとうございました!
とても充実した一日を過ごせました!
本当にためになりました!

史料を読むというのは本当に楽しいですねv
自分の中の吾妻と真田家への愛を再確認しました!

ネタ話をいくつか、後で書きたいと思います。
では、おやすみなさ~い。

明日は彦根に行ってきますv

今日は筋肉痛で一日動けませんでした。情けない(涙)

でも、動いた翌日に筋肉痛が出たのでほっとしました。


明日は憧れの方と一緒に彦根へ行きます。
今から楽しみで楽しみで、今夜眠れるか心配です。

井伊直孝が馬を集めまくったという噂の厩を見てきたいと思います!

****
すみません。コメントのお返事は明日します!

山から戻ってきました

最寄駅から山頂までの行程約11Km(表参道経由)
山頂から最寄のバス停まで約7km(裏参道経由)

合計約18kmの道のりを歩いて制覇してきました!
さすがにしんどいです。

五月の愛宕山はきらめく様な新緑でいっぱいでした。
所々に躑躅が咲き乱れ、山頂付近では山桜が満開でした。

登山口付近と山頂付近は急な上り坂で階段も多く、大変辛かったのですが中腹は普通の山道でとても楽でした。

一番きつかったのは山頂の愛宕神社への階段でした。
ここで全ての体力を使い果たし、ヘロヘロになりながら愛宕神社に到着。

なんて綺麗な場所なんだろうと思いました。
白木の拝殿にわずかな装飾が施されているだけの、質素な色合いの拝殿でした。
山頂の冷たい空気と神域独特の雰囲気の中に静かに佇む拝殿には、余計な色が必要ないのだと感じました。
ただただ、綺麗な場所でした。

無事に火事除けのお札をもらってきました。

帰りは裏参道を伝ってホテホテと山道を散策しました。
舗装されていない、沢伝いの道を歩きながら江戸時代の旅について思いを馳せました。


今回、無事に18kmを歩きとおせたので自信がつきました。
秋くらいに、「柳生の里」の古道を歩いてみたいものです。

明日、山に登ります。

急に明日「愛宕山」に登ることになりました。
山頂の神社で火災除けの御札をもらってきます。

と、言うわけで今日は寝ます。

すみません。メールのお返事はまた今度します。
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てるてる

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