へそくりが貯まったので

「信濃史料叢書15-18 真田家御事蹟」と「真田藩政と吾妻郡」どちらを買おうか悩むこと一週間。

「真田藩政と吾妻郡」を買うことに決めました。
こちらを選んだ理由は
現代文で書かれているから!

いえいえ、一番の理由は吾妻衆の動向を知りたいからです。
特に気になるのは元和4年の真田氏と吾妻の関係。


大阪夏の陣から2年たったこの年に、私が知るだけでも4人の吾妻衆が殺されています。
1.6月10日  忍者「田村 左次右衛門 清隆」が自宅で密談の末自刃
2.7月25日  「佐藤 豊後(折田 軍兵衛)」が同じ吾妻衆の「富沢和泉」と小競り合いを起こし討ち取られる。(富沢和泉は後に越後へ逃亡)
3.9月下旬  忍者「割田 下総守 重勝」が盗みの罪により仲間に討ち取られる。
4.9月下旬 「鹿野 和泉」が割田下総討伐にて返り討ちにあい死亡。
 
調べればもっといるかもしれません。
いったいこの年の前後に何があったのか気になって気になって。


早速「日本の古本屋」というサイトで注文!

届くのが楽しみですv

****
余談ですが、「佐藤豊後(折田 軍兵衛)」は忍者だったのでしょうか?真田昌幸の海野兄弟討伐の折の働きを見ると忍者っぽく見えるのですが。

吾妻衆はどこまでが忍者なのか良くわかりません。

割田下総 馬を盗むの巻

あらすじ

・その1
天正12年の話です。
割田下総は一人で「中山城」へ潜入調査に向かいました。

ところが、城の警備をしていた者共に
「夜盗が出たぞ!」
と騒がれて城を追い出されてしまいました。

悔しく思った割田下総は追手の目をくらませて中山城へ戻りこっそりと隠れました。

騒ぎが静まった頃に、割田下総はこっそりと城門を開け馬に乗り大声を上げました。

「横尾村から割田下総がやってきた証として、お土産に馬を頂きかたじけない。このお礼として次は城を攻め落としに参りましょう。その時はお取次ぎをお願いしたいものです。」

そう言捨てて、割田下総は馬に鞭あて峠へと消えて行きました。


その2
天正13年9月のある日、真田の軍は沼田城を狙って北上してきた北条の軍と白井の地でにらみ合っておりました。
この戦に割田下総も参加しておりました。
割田は仲間に語りました。
「俺が見てきた限りでは北条の兵はたいしたことなさそうだ。俺は良い馬が欲しくてなあ。明日、ちょっと敵陣へ行ってきて馬や鞍を取ってくらぁ。」

翌日、商人に変装した割田下総は北条家の若侍達を見事にだまして名馬を一頭盗むことに成功しました。

このまま自陣へ戻るのも面白くないと思ったのか、割田下総は名馬に乗って若侍達のもとへと戻りました。

割田下総は馬上にて刀を取り出し、
「この俺を誰だと思っているのだ。真田安房守の臣である割田下総守重勝であるぞ。良き馬と鞍を頂いた。明日の戦でもってこのお礼としよう。松田殿(馬の持ち主)によろしく伝えてくれたまえ。」
と言捨てて今度こそ、自陣へと帰ったのでした。

後に名馬は真田昌幸公に、鞍は矢沢薩摩守頼綱へと献上したそうです。

この話が広まって割田下総は敵からも味方からも
「古今まれに見る乱暴者。」
と思われたそうな。


***********

割田下総、実力はあるのに人望がなさそうです(笑)

***********

割田下総と唐沢玄蕃の逸話を並べてみました。
この二人の関係は
「唐沢玄蕃の妻が割田下総の娘」
唐沢玄蕃から見ると割田下総は義理の父親となります。
二人の墓は同じ「寺院跡」にあるそうです。


割田→貧乏人     唐沢→結構金持ち(知行持ち)
   身分が低い      爺さんの代からそこそこ身分がある
   墓はそこらの石    立派な墓がある
   盗品を献上      盗品は自分の物
   最後は犯罪者として撃たれる


二人を比べてみると結構面白い。

唐沢玄蕃と金の馬鎧

あらすじ

天正年間の話です。
命令を受けた唐沢玄蕃は敵方の城へ偵察に行きました。

仕事を終えて、城を脱出しようとしたときです。
唐沢玄蕃は馬屋で足を止めました。
そこには立派な金の馬鎧を纏った馬がいました。

この「金の馬鎧」は関東管領が作らせた、この世に二つとない珍しい宝物でした。

次の日、城では
「金の馬鎧をつけた馬がいなくなった!」
と大騒ぎになりました。


それからしばらくして、埼玉県のとある城を攻略していた武田信玄の目に珍しい「金の馬鎧」が映りました。
信玄は真田信綱を呼んで訊ねました。

信玄「あの珍しい馬鎧の持ち主は何者だ?」
信綱「私の配下である『唐沢玄蕃』でございます。」

こうして唐沢玄蕃は思いもよらない所で名を馳せることができたのでした。

****

後日談

真田信之が大戸の仙人窟に陣をしいて北条家と戦った時の話です。
唐沢玄蕃はことのきも金の馬鎧を馬につけて戦っていました。
馬鎧があまりにピカピカと目立つため、北条方の兵に
「あの目立つのが大将であるに違いない!」
と狙われたそうです。


****

・・・忍者がこんなに目立っていいのかな。
割田下総も馬を大勢の目の前で盗んだ上に名乗りを上げてるんだよな。
「武辺忍び」は目立ってもいいのかな?

※「武辺忍び」・・・吾妻記で割田下総の説明に使用されていた単語

地域の小さなお祭りの話

私の育った集落では、12月の初めに各家庭でお餅をつきます。

12月17日に、集落の皆でお餅を持ち寄ってお稲荷さんへ詣でます。
本家さんが代表してお稲荷さんにお祈りした後で、お餅をお稲荷さんの前の広場に投げます。


投げたお餅は皆で競い合って拾って、家で食べます。


以上でお祭りは終了。
何のための祭りなのか、よくわからないのですが子供の頃はお餅拾いが楽しみで毎年ワクワクしていました。

このお祭りが終わってから暮れ(年末)の準備をはじめます。

女衆は大掃除をしたり、おまい玉(米粉で作った団子。おそらく「お繭玉」がなまったと思われる)を作ったり、正月用の餅をついたりみかんに紐を通したりします。
男衆はそれぞれ山に入って自分の家の分の「松の枝」を取ってきます。


集落では、門松を飾りません。


玄関や室内のあちこちに松の枝とみかんとおまい玉を飾ります。
これらの飾りは小正月のドンドン焼きで焼かれるまで飾り続けます。


お稲荷さんでのお餅投げから小正月のドンドン焼きまでが一連の行事なのでしょうね。


これからも、あそこに人が住む限りは「伝統行事」として続いていくのでしょう。
多分。

今訳してるところ

あらすじ

鎌原氏は羽尾氏と争っていました。
鎌原家の家臣「樋口」さんは羽尾氏に通じて鎌原家を裏切りました。

樋口「鎌原は黒馬に乗ってますからそこを撃ち殺してください。」
羽尾「了承した。」

そして、決戦当日。
鎌原の黒馬が川で足を止めて動かなくなりました。

鎌原「まいったな~。おい、樋口。お前の馬と取り替えてくれ。」
樋口「(マジかよ!黒馬に乗ったら俺が撃ち殺されるっての!)かしこまりました。」

鎌原と馬を取り替えた樋口はとにかくびくびくしました。
樋口(うわ~。怖いよ~。殺されちゃうよ~。)


その時、銃声が鳴り響きました。
羽尾氏が用意したスナイパーは見事に『黒馬』に乗った樋口の胸を打ち抜いたのでした。

羽尾「よし!鎌原を倒したならばこの戦は勝ったも同然!皆のもの、宴会じゃ!」
こうして羽尾の軍勢は大宴会を始めたのでした。


進軍を続けていた鎌原の軍は、宴会をしている羽尾の軍を発見しました。
これを幸いと鎌原の軍は羽尾の軍をやっつけてしまいました。
羽尾氏は命からがら岩櫃城の斉藤家に助けを求めたのでした。


めでたしめでたし?
***

あらすじはわかってるんだ、あらすじは!
こまかい所でうんうん唸っています。先に進まない~~~。

新嘗祭

実家で行われている新嘗祭の話です。


10月頃に稲刈り→稲の天日干し→脱穀→保管までを済ませます。
ほんの少しの新米を取っておいて新嘗祭の夜に神様や仏様にお供します。
お供えする際に、炊きたての一番綺麗な新米を「わっぱ」と呼ばれる木製の器に盛り付けます。

家長が「わっぱ」と日本酒を神棚と仏壇にしんぜます(お供えします)。
神様やご先祖様に今年の収穫を報告してから、家族みなで新米を味わいます。


翌日、神棚と仏壇の「わっぱ」を下げて洗って戸棚にしまって新嘗祭は終わります。


我が家の新嘗祭は毎年こんな感じでした。


私は新嘗祭の時に食べる米が一年の内で一番うまいと思っています。

上段の間

私の育った家は2階建ての古い農家です。

一階に
「居間」(囲炉裏(現在はコタツ)のある部屋)
「座敷」(仏壇・神棚のある部屋)
「でい」(家長の部屋)
「上段」(床の間と飾り窓のある部屋)
と名前のついた部屋があります。

その中の、「上段」と呼ばれる部屋の話です。


今から××年前、この土地に嫁いできた母は家長である祖父から言い渡されました。
「いいか。この上段の間は“えらい人”が来たときのための大事な部屋だから、嫁は決して入ってはいけないよ。」


嫁だけが入れないのかと思っていたら、家族のだれも入らない。家族の誰も使わない部屋でした。

偉い人のための部屋というのなら、外からお客がやってきたらこの部屋に通すのだろう。
そう思ったのですが、お客がやってきても一度も通すことはありませんでした。


上段の間に人が入ったのは今までにたった一度。
祖父の葬式の時だけでした。

お棺に納められた祖父は上段の間から火葬場へと出立しました。


祖父の葬式から何年かたってから、私は祖母に尋ねました。

てるてる:「何であの部屋には入っちゃいけないの?」
祖母  :「えらい人のための部屋だからだよ。」
てるてる:「(・・・質問を変えよう)何で上段の間だけ天井が高いの?」
祖母  :「殿様とかがやってくる時に、お供の人は長槍を持ってくるでしょう。長槍をまっすぐに立てておけるように天井が高いんだよ。」

てるてる:(偉い人=殿様かい!・・・今は江戸時代じゃなかったよなあ・・・。)

祖母  :「まあ、あの部屋はひいじいちゃんが『本家の上段の間に負けない物を作りたい』って作った部屋だから、本当にお殿様がきたわけじゃあないよ。」

てるてる:「それなら家族が使っても問題ないんじゃないの?」

祖母  :「うう~~ん。でも偉い人のための部屋だからねえ。」


そういうわけで、現在も上段の間を使う人は誰もいません。


幼い頃、「座敷童」のための部屋なのではとこっそり覗き込んだのは祖母には内緒です。

実家の景色

日参している上州一揆様のブログを読んではっとした言葉。

ーーーー
変化は時代の流れ、しかし人間業を越えて機械が登場してくると、
風景を一変してしまう時代になったのでしょうね。


それまでの景色はそれこそ、江戸、中世、それ以前までたどれる景色だったと考えたりしています。

ーーーー

ああ、私の実家の周辺も中世に先祖が住み着いてからあまり変化していない場所でありました。


その昔、吾妻に攻めてきた真田幸隆に味方した小土豪が私の先祖です。
その子孫達が暮らしている小さな集落で私は育ちました。


大きな災害に見舞われることもなく戦争に焼かれることもなかった土地のため古い農家がたくさん残っている場所です。私の実家も築150~200年という古さです。本家さんは大正7年まで釣り天井の構造を残してあったそうです。


道も川も舗装されていますが、裏の林のお稲荷様や先祖代々のお墓、人しか歩けない山道などはおそらく1600年代の頃と変わっていないのでしょう。


今は舗装されている道路もほんの50年前までは地面がむき出しで、その上を農耕馬が娘さんをのせてぽこぽこと歩いていたのでしょう。
(私の伯母は馬の蹄鉄を打ってもらいに町までよく出かけたそうです)

竹で編んだおおきな籠に、目一杯桑の葉を詰め込みその上に赤子を乗せて歩く百姓もいたでしょう。


その土地に根付いた風習や小さなお祭りなども、風景と共にずっと昔から続いてきたのでしょう。


真田と直接関係する話ではありませんが、少し故郷の話も書いてみたいと思います。
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