スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

馬場美濃、風林火山の旗に文句をつける

正武将感状記(1700年代に武将の逸話を集めて書かれたもの。信憑性は殆ど無いがネタとしては大変に美味しい)より現代語訳

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
馬場が臣下の心得もわきまえず、主君の考えを慮る事もしないで言うことに、
「行軍の時に風の字を旗に入れてるの良くないと思う。風って始めは強風でもいずれ弱るし。朝の風は意気揚々とさせてくれるけど夕暮れの風は帰りたくなるし。だから行軍の旗に使うには危ない字だと思うんだけど。」

信玄は頷いて答えました。
「馬場の言うとおりだ。でもこの旗は先鋒隊に持たせて『疾いこと(速いこと)は良い事だ』と宣伝させるのだ。私が旗本達を率いてその風の速さに続いていくのだ。」

これを聞いて馬場は深く感じ入り
「この身をもって(お屋形様に)勝ちを悟らせましょう。」
と言いました。

このような問答には味わいがあり、他国では真似できない素晴らしいことでありました。

~~~~~~~~~~~~~~~~
甲陽軍鑑と違ってこちらの馬場美濃は空気を読まないわ生意気だわで、それを許す信玄公の器が大きい事を強調されているように思えます。
スポンサーサイト

馬場美濃ご飯

甲陽軍鑑 石水寺物語より 馬場美濃守が武士についてご飯に例えて話している箇所を現代語訳しました。

~~~~~

さてまた、馬場美濃がご自身の見解で、身分や俸禄の高い武士や逆に身分や俸禄の低い武士について朝晩お与えになるご飯に例えておっしゃいました。

「下々の者たちがご飯を上手に炊くと、固めでもさらりとして一段と味の良さを楽しむことが出来る。まして、柔らかなご飯は当たり前のように美味しい美味しい。

また、下々の者達が下手に炊いたご飯は柔らかいかと思えばまるで武器のようだし、固いかと思えばぐしゃぐしゃしている。これは中の煮えぬ(中まで火の通っていない)ご飯である。

そんなわけだから、固い(頑固で強情な)人と積極的に親しくなろうとするのは良い事だ。人当たりの柔らかい人はさらに奥が深い、例えば綿で針を包んでいるような良い人だ。

さて、人によっては固い(頑固で強情な)人かと思えば嘘を付き、良い武士に嫉妬し、全てにおいて心得を持たず、こびへつらい、そのような有様で腕をひけらかし、さも腕前があるように事を運ぶ。こういう人を「中の煮えぬ人」と言うものだ。

それにつけてもここを良く信玄公はお考えになっていらっしゃるから、原美濃などに職務の権限を与えていらっしゃるのだと推測しているのだ。この原美濃殿は信玄家中の優れた武士であるので、原美濃が生きている間は武田の家中にて「美濃」と名乗るものはいなかった。
永禄7年(甲子)に原美濃が死去されてから、馬場民部もお屋形様の御意を得た上で「馬場美濃」になることができたのだ。

その上、馬場の軍の旗挿物である「黒御幣(くろおんべい)」は小畠入道(小畠 虎盛?)に「ちいの挿物」を願い出てうけ取ったのだ。我等はひとしお小畠山城殿(小畠虎盛)を信頼し尊敬しており、大勢を指揮するときに僅かながらでも作法を知っているようになったのも小畠入道のやり方を探り同じようにしてきたからだ。

さてまた、城取の心得が少しあるのは山本勘助入道道鬼の様々な話(雑談)から学んだものだ。

このようにたくさんの人々から学んできたのだ。」

と馬場美濃守が物語ったのでした。

1600年7月31日 石田三成からの書状

リクエストを頂いたので訳してみました。
石田三成は昌幸公が味方してくれると疑ってなかったのかな。


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
7月21日付けの書状が27日に近江佐和山城に届きましたので拝見いたしました。

一つ、書状の覚書と御使者の口上については心得ました。

一つ、挙兵のお話を前もってお知らせしなかった事をお怒りになっていらっしゃるでしょうね。しかし、徳川家康が大坂にいる間は侍一人一人の心を見極める方法も無く、己の意思を言葉にする事を遠慮するしかありませんでした。
特に貴殿(昌幸公)は公儀(豊臣政権)を疎略にする事の無いお方です。世の中がこのようになった上はどうして何もしないでいられましょう。皆、隠密に話を持ちかけても私の意見が通らない事を思い、貴方お一人に打ち明けてもしょうがないと考えてしまい、今は後悔しております。お恨みに思われてもやむをえないと思っております。
しかしながら、もはや悔やんでいる場合ではございません。どうか太閤様のご懇意をお忘れなく、この度は豊臣家へご奉公していただけることを心より願っております。

一つ、大坂がどのようになっているか、ほとんどの事は御使者から聞いておられると存じます。まずは真田家の奥様方は大谷刑部が保護いたしましたのでご安心ください。長束正家・増田長盛・前田玄以も協力してくださいました。我らの兵は漸く昨日伏見まで進軍いたしました。あわせて大坂の武家屋敷にも人をやりご家族を保護しております。

一つ、この度大坂から東国へ出陣する大名達は大坂の動きを見てことごとく帰陣いたしますので尾張・美濃にて人を止め、一人一人の考えをを聞き出し秀頼様をぞんざいにしないことをすっかり明らかにし帰国するように努めたいと思います。

一つ、おおむね変わった事は無く、おのおのの覚悟が一つになったときに戦いを始めます。

一つ、細川忠興殿は太閤様がお亡くなりになった後に自ら徒党を組んで国乱を企てたため、居城である丹後国へ兵を使わして城を乗っ取りました。父親の細川幽斎の城にも攻め掛かり二の丸まで打ち破った所、禁中(天皇家)から命だけは助けてやって欲しいと命令が下りましたので命は取らず丹後国は平定している最中です。

一つ、今年の年末から正月の間は関東平定のために兵を出す予定です。そのために九州・四国・南海・山陰道の人員を八月中に限り近江に陣取り、兵や兵糧をそちらへ送る準備をしております。

一つ、前田利長も豊臣家に対して疎略な扱いをするつもりは無いとの事。そうは言っても老婆(前田まつ)を江戸へ人質にやっている間は家康を疎略にしない態度を取り続けたいので豊臣家に気を使わない態度も取るという事をお心得置きくださいとおっしゃっていました。

一つ、(昌幸公が)箇条書きでお尋ねになられたことは御使者に返答いたしました。また、私が箇条書にして申し上げた項目は御使者の口上に納得した物だとお思いください。

一つ、こちらから三人の使者を遣わしました。その内一人は昌幸公の返事が決まり次第『案内者(事情に精通している人)』を付けて私の元へお返しください。残る二人は会津への書状をもたせていますので昌幸公に連なる者を添えて沼田越しに会津へと遣わしていただきたい。その後、昌幸公の下へ返事を持ち帰ったときは同じように『案内者』を添えて大坂までまで寄越してください。お待ち申し上げております。

一つ、頭州(信幸)・左衛門佐(信=j殿にも別紙でもってお話しているとは言えども貴殿からも言っていただけるものと思っています。詳しくは御使者におっしゃって頂きたいです。恐惶謹言・

7月31日
  真房州 御報                       三成

唐沢玄蕃と金の馬鎧 訳し終えました。

まとまった時間が取れたので一気に訳しました。
最後のほうの文章が読みにくくなってしまったのでもっと読みやすく治したいところ。

こういうとき、既存のネタ本などの訳し方って上手だよなあと溜息一つ。
自分は直訳に近い意訳をする人間なので、どうしても加沢記の文章が硬く回りくどくなるんですよね。
もっと判りやすく、読みやすくしたいのですけど・・・・悩むところです。

さてさて、金の馬鎧を盗んじゃった唐沢お猿君。
某「歴史秘話」の番組に登場したときはこのお話が非常にかわいらしく紹介されてましたね(笑)
幼名といい、欲しいものを目にしたら指令を無視して盗んじゃったり、うん、可愛いよお猿君(笑)

本当にこの人、関ヶ原の後どこに消えちゃったのかな。北能登守と一緒で史料からふっと姿を消しちゃうんですよね。
お墓が残っているって事は上州で農家して暮らしていたんでしょうけど。
「忍者」って響きだけで何か真田家の裏の仕事でもしてたのかな~~と妄想してしまいたいところなんですが、そんなことしてたら二代目出浦さんに抹殺されますな。割田さんや田村さんみたいに。

何でも三重大学で忍者を研究する学部が出来たとの事。伊賀や甲賀だけでなく、全国にいたたくさんの忍者達の足跡も研究してくれないかな。

「海野長門守海野能登守 吾妻郡代」訳し終えました 

やっと信幸兄さんが砥石城で生まれました。去年の11月からはや2ヶ月。ずっとほおっておいて兄さんごめんね!!

加沢記では砥石城生まれの信幸兄さんですが、実際はどこで生まれたのでしょうね?
やはり甲府でしょうか?
永禄9年の昌幸がどこでどのような働きをしていたのか詳しくは判らないのですが、おそらく躑躅ヶ崎館でお仕事をしていたのではないかな~~~と思っています。
幸隆公はこの頃おそらく小県の真田庄にいたと思うので信幸公が砥石城で生まれたのであれば大喜びして可愛がったのではないでしょうか。

ほのぼの真田家が想像できて楽しい時期ですねv

北畠神社へ行ってきました。

中世の庭園を拝見しに、北畠神社へ行ってきました!
小さいお庭でしたが、すごくすごく素敵なお庭でした!!
この素敵さを表現する言葉が見つからないので、写真をのっけておきます。
IMG_3377.jpg
IMG_3393.jpg
IMG_3394.jpg
IMG_3397.jpg


最後に、室町時代の北畠家の屋敷のジオラマの写真も。
IMG_3401.jpg
中世の館跡って良いですねえ。好きです。もう大好きですvv

加沢記に挑戦にちょっと追加

「一井斎」とは誰ぞや????とおもって検索してみたら、白井長尾家の長尾憲景さんでした。
この人は、永禄7年の嶽山攻めで斎藤家に味方して幸隆公に負けて、そのあと元亀三年に幸隆公に白井城を落とされてしまうのですね。
その後なんやかんやあって白井城にもどり、天正8年に武田勝頼の命で真田昌幸が攻めてきた時には落城しなかったそうです。
本能寺の変の後で、北条家に下って沼田城を一生懸命攻めていたようです。

随分と長い事真田家と火花散らしてた人だったんですね。覚えておかないと、数ヵ月後とか数年後にまた
「一井斎?誰それ???」
となりそう。

そのうち総社の地侍とかもたくさん出てくる事になるんだろうな~。覚えられるかちょっと不安。



地図改変

一昨日、藍様にいただいたアイコンの数々をフリー素材として公開しました。
とても素敵なアイコンですのでお持ち帰りして使っていただけると嬉しいですv

さて、前回作成した地図から岩櫃城周辺を抜き出して風景写真風に加工しました。
ついでに武田軍の進軍コースと戦闘があった場所にアイコンを追加。
昌幸公が陣を貼った場所に武田の旗を。
信綱公が待機していたであろう場所に六文銭の旗を置きましたv

地図に間違いを発見したので一時非表示にしています

クリックで拡大されます。
「この地図の作成に当たっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図200000(地図画像)、数値地図50000(地図画像)、数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平22業使、第91号)」


こちらの図の方が判り易い気がする。
昌幸公は武田家の使いとして参加しているので陣に風林火山の旗を使用しました。
信綱兄上は「暮坂峠」にいるんですけど、陣を貼るために沢渡温泉まで降りたと思うので温泉に六文銭を立てました。
(・・・前回は山越えして川中温泉に待機。今回は街道を伝って沢渡温泉に待機。戦闘は一度も無し。信綱兄上、歩くだけ歩かされて活躍の場がもらえなかったなあ。)

ちなみに幸隆公は川原湯温泉の近くにいたのでこの地図には入りません。もっともっと左上の山の中にいます。

改めて加沢記の記述を追って思ったのですが、斎藤家は岩櫃城の大手門側に兵力を集中しすぎましたねえ。
岩櫃山の裏から武田勢がやってくるとは思わなかったのかな。

一番の激戦区は矢沢の大叔父隊だった模様。大手門側の谷間に斎藤家の主力部隊が結集してました。
やはり大叔父は強い。

さーて、後は加沢記の訳を終わらせたらこの地図張り付けて岩櫃城攻めは完成!
訳が終わるまで後1P。
頑張りますv

地図完成

2か月ほど前に「斎藤憲広逃亡予想図」をカシミール3Dで作成した際に「お城アイコン探さなくちゃなあ。」とつぶやいた所、藍様が素敵なアイコンを作ってくださいました!!

そのアイコンを使わせていただいて完成させた地図がこちら。
斎藤憲弘逃走経路予想図クリックで拡大されます。
「この地図の作成に当たっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図200000(地図画像)、数値地図50000(地図画像)、数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平22業使、第91号)」

城の位置と距離感がしっかりつかめるので自分は大満足です。
惜しむらくは、地図がゴチャゴチャするので軍勢アイコンをつけられなかった事。

後で岩櫃城周辺だけ切り取って拡大して、軍勢アイコンを足そうと思います。

岩櫃城の南に信綱兄上が。稲荷城に昌輝兄上が、有笠山の洞窟に昌幸公が、柳沢城の麓に矢沢の大叔父がいました(真田一族大集合vvv岩櫃城攻めって本当に真田家好きには美味しい合戦です)。
ちなみにこの時、幸隆公は川原湯温泉の北方に陣を貼ってましたのでこの地図には乗りません。
そこまで地図を広げると画像がやたら大きくなってしまう!!

藍様、素敵アイコンをありがとうございました!!
これからも活用させていただきますvvvvv

養源院へ行ってきました

妙心寺大法院の真田家特別展がもうじき終了するので最後にもう一度大蛇丸さんといってきました。
帰りにちょっと遠回りして養源院へ行って伏見城の遺構をみてきました。

一番有名なのはやはり血天井でしょう。
関ヶ原の戦いより少し前、伏見城の戦いで自刃した鳥居元忠(他約300名)の血が染み込んだ廊下の板を天井に使い供養しているのです。

お寺の方のガイドに従って天井の黒い染みをみると・・・・・・・見えます見えます。
顔の跡の中にしっかり目鼻があります。
肩も足も足の指もはっきりと見えました。
掌の跡や足跡などが雨の降りそぼる薄暗い明りの中でもしっかりと見えました。

血の跡と言っても酸化して黒く変色していたおかげか、あまり怖くはありませんでした。
この廊下で自害した人達もまさか500年以上も自分の影が残るなんて想像もしなかっただろうなあ。

それから伏見城の謁見の間を移築した部屋も見てきましたv
狭い部屋の奥が上段になっており、その手前の左右も畳で少しだけ床が高くなっていました。
おそらく謁見する立場の人間は一番低い板間に座ったのでしょう。
多分、おそらく、昌幸公が秀吉に謁見した時もこのような部屋に通されたのでしょう。

人と人が話す時に、その場の閉鎖性というのはとても重要だと思います。
内緒話しかり、ただのおしゃべりしかり、仕事の話しかり。
昌幸公と秀吉はどれくらいの距離間だったのかなあ。
秀吉と幸村の距離感はどれくらいだったのかなあ。
近かったのか遠かったのか。

あ、秀吉の仏間とか、寝室もありました。
意外に狭かったです。

そのあとで方広寺へ行って伏見城の大手門を移築したといわれる門と大阪の陣の原因となった鐘も見てきました。
秀吉の大仏殿は本当に広かったんだなあ。そして突貫の手抜き工事だったんだなあ。
・・・・・・本当によく焼けたお寺だったんだなあ。


久しぶりのお寺巡りで楽しかったですvvv
探せばまだまだ戦国時代に関係する場所が出てくるんだろうなあ。
プロフィール

てるてる

最近の記事
最近のコメント
最近のトラックバック
月別アーカイブ
カテゴリー
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

ブログ内検索
RSSフィード
リンク
TweetsWind
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。