2008.12.05
本田忠勝の書状(原文を追加しました)
コピーした史料を整理していたらでてきたので、忘れないうちに現代語訳しておこうと思います。
長野原町史P133より
本田忠勝が真田家家臣『湯本三郎左衛門』に送った書状です。
「小松姫が真田家に嫁いだ天正18年前後のもの」とされています。
真田家御事績だと小松姫が嫁いだのは天正14年前後となっているのですけど・・・天正14年前後の方が正しいんじゃないだろうか・・・・・・・。
〜〜〜〜〜原文〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
切封表書(書状をくるんでいた封書の宛名書きです)
湯本三郎左様 本中務
御宿所 忠 勝
========ここから本文========
尚々一日も書状以申候。 鷹の羽送給候。 満足申候。 委細追而可申候。
乍 幸便 一書申入候。 扨々先日者其元へ参候処、種々御馳走、于今難忘存候。
其已後以書状申入候。 参着申候哉。 伊豆殿御上候事候。
節々申談候。 如何様 来春何とぞ致湯治可仕候。 其節相積儀 可申談候。
神殿へ此中も御噂申出候。 弥 ぬまた我々むすめ方へ御懇志 頼入申候。
其様御内さまへも言伝申し候。 恐々謹言
卯月17日 忠 勝(花押)
〜〜〜〜〜意訳〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
先日は鷹の羽を送っていただきましてありがとうございました。とても満足いたしました。改めてまた御礼を致したいと思います。
手紙にて申し上げます。
さてさて、先日貴方様の所へ行ったおりには、たくさんのご馳走でもてなしていただきましたね。今でも忘れられません。
あの後の事を(すでに書状にてお伝えしましたが)直接そちらへ参って申し上げたいと思っています。
真田信之殿が御上がり(京都や大阪へ上洛か?)するとの事ですので、いくつかの事についてお話し合いをしたいと思っています。
どうでしょう、来春に草津温泉で湯治をしたいと思っています。その時に互いに積もるお話をしませんか。
私も神殿(人名か?)へ最近の噂などを報告して参りました。
沼田の皆様がますます我々の娘の方へ親切にしていただけるようにお願い申し上げます。
そのように(あなたの)奥様へもお伝えしていただけますか。
湯本三郎左衛門様へ
本田中務忠勝より
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
草津温泉の主・湯本家は接待のスペシャリストだったようです。
長野原町史P133より
本田忠勝が真田家家臣『湯本三郎左衛門』に送った書状です。
「小松姫が真田家に嫁いだ天正18年前後のもの」とされています。
真田家御事績だと小松姫が嫁いだのは天正14年前後となっているのですけど・・・天正14年前後の方が正しいんじゃないだろうか・・・・・・・。
〜〜〜〜〜原文〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
切封表書(書状をくるんでいた封書の宛名書きです)
湯本三郎左様 本中務
御宿所 忠 勝
========ここから本文========
尚々一日も書状以申候。 鷹の羽送給候。 満足申候。 委細追而可申候。
乍 幸便 一書申入候。 扨々先日者其元へ参候処、種々御馳走、于今難忘存候。
其已後以書状申入候。 参着申候哉。 伊豆殿御上候事候。
節々申談候。 如何様 来春何とぞ致湯治可仕候。 其節相積儀 可申談候。
神殿へ此中も御噂申出候。 弥 ぬまた我々むすめ方へ御懇志 頼入申候。
其様御内さまへも言伝申し候。 恐々謹言
卯月17日 忠 勝(花押)
〜〜〜〜〜意訳〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
先日は鷹の羽を送っていただきましてありがとうございました。とても満足いたしました。改めてまた御礼を致したいと思います。
手紙にて申し上げます。
さてさて、先日貴方様の所へ行ったおりには、たくさんのご馳走でもてなしていただきましたね。今でも忘れられません。
あの後の事を(すでに書状にてお伝えしましたが)直接そちらへ参って申し上げたいと思っています。
真田信之殿が御上がり(京都や大阪へ上洛か?)するとの事ですので、いくつかの事についてお話し合いをしたいと思っています。
どうでしょう、来春に草津温泉で湯治をしたいと思っています。その時に互いに積もるお話をしませんか。
私も神殿(人名か?)へ最近の噂などを報告して参りました。
沼田の皆様がますます我々の娘の方へ親切にしていただけるようにお願い申し上げます。
そのように(あなたの)奥様へもお伝えしていただけますか。
湯本三郎左衛門様へ
本田中務忠勝より
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
草津温泉の主・湯本家は接待のスペシャリストだったようです。
2008.06.28
仙蔵の城の写真
地図のページに仙蔵の城の写真を入れました。
幸隆公が駆け登り、戦の指揮を取ったと言われている場所なんですけど・・・・・あそこ、あの急勾配を馬で駆け登れるものなのかなあ・・・・・。あんな崖の上を馬が走れるものなのかなあ・・・。ものすごーく疑問です。
仙蔵の城の写真といっても藪の写真なんですけどね(笑)
自分で見れば、ああ、アノ場所はこんなふうに郭の跡があって、あんな風に堀があって・・・とあれこれ思い出せるのですが、知らない人が見たらただの藪の写真です。
本当は写真の真ん中に小さな祠があったのですが、写真に撮ってよいのやら・・・と悩んだので写してません。
このお城は地元の昔話にもちらっとでてきます。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
仙蔵の城を治めていた塩谷元清の元へ、猿のように元気な女がやってきます。
たちまち塩谷元清は女に心を奪われ、妊娠していた自分の妻を離縁してしまいます。
妻は実家へ帰るのですが父親は
「お前が悪いから夫を奪われたのだ。」
と怒り追い出してしまいます。
行く宛てのなくなった妻はふらふらと歩き続け、やがて和利の宮のお祭りの中へと入って行きます。
身なりの良い女性が足をドロだらけにしてふらふら歩いているのを見つけた侍が妻をさらって主家の大野家へと連れて行きました。
大野氏は妻の話を聞き、おおいに同情して匿ってくれました。
やがて妻は男の子を出産。一場二郎と名付けました。
自分の息子と妻を人質に取られた塩谷氏は大野氏に攻められてすぐに降参し、大野氏の配下となったのでありました。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
塩谷氏の自業自得だよな〜〜〜と思うのは私だけでしょうか??
幸隆公が駆け登り、戦の指揮を取ったと言われている場所なんですけど・・・・・あそこ、あの急勾配を馬で駆け登れるものなのかなあ・・・・・。あんな崖の上を馬が走れるものなのかなあ・・・。ものすごーく疑問です。
仙蔵の城の写真といっても藪の写真なんですけどね(笑)
自分で見れば、ああ、アノ場所はこんなふうに郭の跡があって、あんな風に堀があって・・・とあれこれ思い出せるのですが、知らない人が見たらただの藪の写真です。
本当は写真の真ん中に小さな祠があったのですが、写真に撮ってよいのやら・・・と悩んだので写してません。
このお城は地元の昔話にもちらっとでてきます。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
仙蔵の城を治めていた塩谷元清の元へ、猿のように元気な女がやってきます。
たちまち塩谷元清は女に心を奪われ、妊娠していた自分の妻を離縁してしまいます。
妻は実家へ帰るのですが父親は
「お前が悪いから夫を奪われたのだ。」
と怒り追い出してしまいます。
行く宛てのなくなった妻はふらふらと歩き続け、やがて和利の宮のお祭りの中へと入って行きます。
身なりの良い女性が足をドロだらけにしてふらふら歩いているのを見つけた侍が妻をさらって主家の大野家へと連れて行きました。
大野氏は妻の話を聞き、おおいに同情して匿ってくれました。
やがて妻は男の子を出産。一場二郎と名付けました。
自分の息子と妻を人質に取られた塩谷氏は大野氏に攻められてすぐに降参し、大野氏の配下となったのでありました。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
塩谷氏の自業自得だよな〜〜〜と思うのは私だけでしょうか??
2008.05.15
第二次上田戦で、
徳川軍に属していた信幸兄上が上田城の昌幸父さんと幸村の様子を見て
「家族の危機だからやっぱり俺、父上の所へ行く!」
と言い出して馬に乗って走り出そうとした所を、祢津を筆頭とする家老達に取り押さえられました。
という逸話があります。
この時、矢沢頼康(矢沢三十郎)は昌幸側か信幸側か、どちらに着いていたのか気になったので調べてみました。
出浦家の文書によると、信幸側にいたみたいですね(沼田藩の家老だから、当然と言えば当然か)。
そうか、三十郎は幸村の敵側についたのか。
涙を呑んで信幸兄上を馬ごと押さえつけたのか。
・・・この時って、真田家の主要な家臣はほとんど信幸兄上の側にいるのかなあ???
うう〜〜〜ん。良くわからない。
「家族の危機だからやっぱり俺、父上の所へ行く!」
と言い出して馬に乗って走り出そうとした所を、祢津を筆頭とする家老達に取り押さえられました。
という逸話があります。
この時、矢沢頼康(矢沢三十郎)は昌幸側か信幸側か、どちらに着いていたのか気になったので調べてみました。
出浦家の文書によると、信幸側にいたみたいですね(沼田藩の家老だから、当然と言えば当然か)。
そうか、三十郎は幸村の敵側についたのか。
涙を呑んで信幸兄上を馬ごと押さえつけたのか。
・・・この時って、真田家の主要な家臣はほとんど信幸兄上の側にいるのかなあ???
うう〜〜〜ん。良くわからない。
2008.05.10
草津温泉誌が面白い
図書館からコピーしてきた草津温泉誌をちまちま読んでいます。
真田家と関わった湯本家の部分だけをコピーしたのに、全部で150枚くらいあります。
現代語だから楽に読めますvv
最初に目に着いたのが、1601年(慶長6年)の真田信幸の朱印状。
要約すると、
「湯本が良く勤め励んだので、以後 草津の湯銭は免除する。同じく未納分も免除する。」
湯本さんがどれくらい真田家への上納金を滞らせたのかというと、(草津温泉誌によると)慶長4〜5年の少なくとも2年は納めていなかったそうです。
一年間におおよそ10両の上納金が定められていたそうなので、すくなくとも20両は未納だった模様。
上納金の未納分は戦の活躍で帳消しになった模様です。
戦国時代ならではの税金免除の方法ですね。
真田家と関わった湯本家の部分だけをコピーしたのに、全部で150枚くらいあります。
現代語だから楽に読めますvv
最初に目に着いたのが、1601年(慶長6年)の真田信幸の朱印状。
要約すると、
「湯本が良く勤め励んだので、以後 草津の湯銭は免除する。同じく未納分も免除する。」
湯本さんがどれくらい真田家への上納金を滞らせたのかというと、(草津温泉誌によると)慶長4〜5年の少なくとも2年は納めていなかったそうです。
一年間におおよそ10両の上納金が定められていたそうなので、すくなくとも20両は未納だった模様。
上納金の未納分は戦の活躍で帳消しになった模様です。
戦国時代ならではの税金免除の方法ですね。
2008.03.09
信綱公の枡
風邪のほうは、ぼちぼち治ってきました(旦那と移し合い倒れっこしてました)。
体に大分余裕ができてきたので、ちょっと訳しました。
貫忠漫筆 次郎左衛門話より〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
永禄4年の事です。
真田信綱公は台所へ入ると一斗枡と五升枡をおつくりになられました。
(この他にも6〜7個の枡をおつくりになられたそうです)
一斗枡には9升5合入ります。
五升枡には4升7合入ります。
信綱公は、民の事を考えてわざと少なめに入る枡をこしらえて年貢を少なめに取っていたのでありました。
この一斗枡はその後に真田信幸公も公用に用いたのですがいつのまにか無くなってしまいました。
五升枡は信幸公から娘の見樹院殿へと譲られました。
見樹院殿は大層お優しい方でした。
領内の百姓が年貢を治めに来る時はいつも御簾の内側から年貢の計量をご覧になっていました。
計量には、信幸公からいただいたこの五升枡を必ず使わせました。
枡からあふれた分の米は百姓へ返してやったのです。
見樹院殿は庭先に米を撒き散らし、雀が啄ばむのを見る事を楽しみにしていらっしゃいました。
そこで百姓共は返していただいた米を
「雀の餌にお使いください」
と見樹院殿へ差し上げたのでした。
百姓共は見樹院殿がお使いになられるこの五升枡を「御情枡」と呼んでありがたがりました。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
真田家では領民の事を考えた優しい税収をおこなっていたんだよ〜〜〜という逸話でした。
叔父上から受け継いだ大事な枡をどっかやっちゃった信幸兄上。あなたって人は・・・。
体に大分余裕ができてきたので、ちょっと訳しました。
貫忠漫筆 次郎左衛門話より〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
永禄4年の事です。
真田信綱公は台所へ入ると一斗枡と五升枡をおつくりになられました。
(この他にも6〜7個の枡をおつくりになられたそうです)
一斗枡には9升5合入ります。
五升枡には4升7合入ります。
信綱公は、民の事を考えてわざと少なめに入る枡をこしらえて年貢を少なめに取っていたのでありました。
この一斗枡はその後に真田信幸公も公用に用いたのですがいつのまにか無くなってしまいました。
五升枡は信幸公から娘の見樹院殿へと譲られました。
見樹院殿は大層お優しい方でした。
領内の百姓が年貢を治めに来る時はいつも御簾の内側から年貢の計量をご覧になっていました。
計量には、信幸公からいただいたこの五升枡を必ず使わせました。
枡からあふれた分の米は百姓へ返してやったのです。
見樹院殿は庭先に米を撒き散らし、雀が啄ばむのを見る事を楽しみにしていらっしゃいました。
そこで百姓共は返していただいた米を
「雀の餌にお使いください」
と見樹院殿へ差し上げたのでした。
百姓共は見樹院殿がお使いになられるこの五升枡を「御情枡」と呼んでありがたがりました。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
真田家では領民の事を考えた優しい税収をおこなっていたんだよ〜〜〜という逸話でした。
叔父上から受け継いだ大事な枡をどっかやっちゃった信幸兄上。あなたって人は・・・。
2008.02.13
第二次上田合戦の一場面
先日和泉さんとお話していて、
てるてる「上田合戦で昌幸父さんが高砂を踊ったって話の元ネタが見つからないのですよ。」
和泉さん「それなら御事蹟の15巻ですよv」
と教えていただき、やっと見つける事ができましたvvv
和泉さん、本当にありがとうございますv
と、いうわけで簡単に意訳
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
(徳川勢が優勢に攻めていましたが、真田勢が城へと戻ったので徳川勢も一旦引くことになりました)
真田左衛門佐と真田安房守が80人余りを引き連れて徳川勢を誘い出しにきたので牧野右馬介(徳川軍)は自軍へ戻るのを辞めて真田勢を追いかけ始めました。
真田勢の殿を務めていた池田市左衛門はこれに気付いて牧野の兵隊達を霍乱しました。
真田勢と牧野の兵との距離がちょうど2丁ほどになった時に、左衛門佐・安房守親子は80人の兵全員で手鼓みを打ち高砂を謡いました。
それを見た徳川勢は怒りのあまり冷静さを失い上田城へと押し寄せたのでした。
(以下略)
長国寺御事蹟巻之10より
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
踊ってない〜〜〜〜〜。でも、男衆80人で謡う高砂はさぞかし迫力があったと思います。
もう一つ、面白いエピソードがあったのでこちらも簡単に意訳します。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
(徳川秀忠公は、真田安房守にだまされた!と上田城を攻めることに決めました)
昌幸は信繁を伴い北の門から物見に出かけました。
この時、上田城大手門を攻めていた牧野右馬介の軍兵が
「あれは真田昌幸親子だ!」
と気付き、二人に向かって駆けだしました。
昌幸は
「信繁、お前が先に城へと入りなさい。」
と言い、信繁は
「父上から先にお入りください。」
と言い、そのまま譲り合いの押し問答を始めてしまいました。
大手門を守備していた池田長門守は敵勢が真田親子の間近に迫るのを見て、二人の前へ進み出ました。
「どうでもいい父子の言い合いで時間を無駄にするのはどうかと思いますよ。お入りください。」
と、昌幸の馬の口を取り城の中へと引き込みました。
これを見て、ようやく信繁も城の中へと入りました。
その後、大手門には敵が大勢攻め寄せましたが池田長門の活躍により敵を突き返したのでありました。
長国寺御事蹟巻之10 翁物語より
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
何と言うか・・・・戦の真っ最中に余裕すぎませんか、この親子は・・・。
第一次上田合戦の時の木村さんといい今回の池田さんといい、昌幸公は家臣にツッコミを入れられることが多いような気がします。天然ボケすぎて周りが突っ込まずにはいられないのか??
突込みがうまくなければ真田軍には入れないのだろうか・・・・・・(木村さんも池田さんも譜代の家臣ではありません)。
常にボケと突っ込みの応酬が繰り広げられる上田城・・・・。何だかイメージが変わりそうです・・・。
てるてる「上田合戦で昌幸父さんが高砂を踊ったって話の元ネタが見つからないのですよ。」
和泉さん「それなら御事蹟の15巻ですよv」
と教えていただき、やっと見つける事ができましたvvv
和泉さん、本当にありがとうございますv
と、いうわけで簡単に意訳
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
(徳川勢が優勢に攻めていましたが、真田勢が城へと戻ったので徳川勢も一旦引くことになりました)
真田左衛門佐と真田安房守が80人余りを引き連れて徳川勢を誘い出しにきたので牧野右馬介(徳川軍)は自軍へ戻るのを辞めて真田勢を追いかけ始めました。
真田勢の殿を務めていた池田市左衛門はこれに気付いて牧野の兵隊達を霍乱しました。
真田勢と牧野の兵との距離がちょうど2丁ほどになった時に、左衛門佐・安房守親子は80人の兵全員で手鼓みを打ち高砂を謡いました。
それを見た徳川勢は怒りのあまり冷静さを失い上田城へと押し寄せたのでした。
(以下略)
長国寺御事蹟巻之10より
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
踊ってない〜〜〜〜〜。でも、男衆80人で謡う高砂はさぞかし迫力があったと思います。
もう一つ、面白いエピソードがあったのでこちらも簡単に意訳します。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
(徳川秀忠公は、真田安房守にだまされた!と上田城を攻めることに決めました)
昌幸は信繁を伴い北の門から物見に出かけました。
この時、上田城大手門を攻めていた牧野右馬介の軍兵が
「あれは真田昌幸親子だ!」
と気付き、二人に向かって駆けだしました。
昌幸は
「信繁、お前が先に城へと入りなさい。」
と言い、信繁は
「父上から先にお入りください。」
と言い、そのまま譲り合いの押し問答を始めてしまいました。
大手門を守備していた池田長門守は敵勢が真田親子の間近に迫るのを見て、二人の前へ進み出ました。
「どうでもいい父子の言い合いで時間を無駄にするのはどうかと思いますよ。お入りください。」
と、昌幸の馬の口を取り城の中へと引き込みました。
これを見て、ようやく信繁も城の中へと入りました。
その後、大手門には敵が大勢攻め寄せましたが池田長門の活躍により敵を突き返したのでありました。
長国寺御事蹟巻之10 翁物語より
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
何と言うか・・・・戦の真っ最中に余裕すぎませんか、この親子は・・・。
第一次上田合戦の時の木村さんといい今回の池田さんといい、昌幸公は家臣にツッコミを入れられることが多いような気がします。天然ボケすぎて周りが突っ込まずにはいられないのか??
突込みがうまくなければ真田軍には入れないのだろうか・・・・・・(木村さんも池田さんも譜代の家臣ではありません)。
常にボケと突っ込みの応酬が繰り広げられる上田城・・・・。何だかイメージが変わりそうです・・・。
2008.02.10
大阪に行ってきました
今日は玉姫街の和泉さんと大阪に行ってきました。
三光神社へ寄って周囲を散策。このあたりに真田丸があったのねvと盛り上がりました。
ついでに大阪城へ行って「秀吉の時代展」と見て来ました。
信幸兄上の若い頃の鎧や幸村公大阪時代の鎧が展示してありましたv
信幸兄上の鎧は赤糸縅で胴の部分に赤い皮が貼ってあって「登り梯子」の絵がついています(信幸兄上は赤が好きだったそうです)。昌幸父さんの鎧と絵柄がお揃いなんですねv(昌幸父さんの鎧は黄糸縅で黒の胸板、登り梯子の絵が描いてあります)
この仲良し親子め!!
隣の幸村公の鎧は手甲やら胴に六文銭が打ち出してあるタイプで細かい所までいろいろな飾り細工がほどこしてありました(おしゃれvvv)。
やはり、大阪で暮らすためにはしゃれっ気は欠かせないのか・・・。
そして秀吉が大谷吉継さんのお母さんや姉妹へ送った手紙にときめいてきましたv
大谷さんは家族そろって豊臣政権の中枢にいたわけなのですねvvvv
そんな大谷さんと縁を持つ事ができた幸村。
やっぱり行政官として期待されてたのかなあ。
見るもの見た後は恒例の真田トークで思う存分語ってきましたvvv
妄想込みで鎌原氏の口説き文句のエロさと昌幸公の親馬鹿っぷりと矢沢の大叔父の甥っ子大好きっぷりについて滔滔と語ってきました。
和泉さん、BASARAやってないのに風魔小太郎と猿飛佐助のかっこよさについて聞いてくださって本当にありがとうございました。BASARAは本当に楽しいゲームですよねvvv
おかげさまで随分すっきりとしました(笑)
また次もよろしくお願いいたしますv
三光神社へ寄って周囲を散策。このあたりに真田丸があったのねvと盛り上がりました。
ついでに大阪城へ行って「秀吉の時代展」と見て来ました。
信幸兄上の若い頃の鎧や幸村公大阪時代の鎧が展示してありましたv
信幸兄上の鎧は赤糸縅で胴の部分に赤い皮が貼ってあって「登り梯子」の絵がついています(信幸兄上は赤が好きだったそうです)。昌幸父さんの鎧と絵柄がお揃いなんですねv(昌幸父さんの鎧は黄糸縅で黒の胸板、登り梯子の絵が描いてあります)
この仲良し親子め!!
隣の幸村公の鎧は手甲やら胴に六文銭が打ち出してあるタイプで細かい所までいろいろな飾り細工がほどこしてありました(おしゃれvvv)。
やはり、大阪で暮らすためにはしゃれっ気は欠かせないのか・・・。
そして秀吉が大谷吉継さんのお母さんや姉妹へ送った手紙にときめいてきましたv
大谷さんは家族そろって豊臣政権の中枢にいたわけなのですねvvvv
そんな大谷さんと縁を持つ事ができた幸村。
やっぱり行政官として期待されてたのかなあ。
見るもの見た後は恒例の真田トークで思う存分語ってきましたvvv
妄想込みで鎌原氏の口説き文句のエロさと昌幸公の親馬鹿っぷりと矢沢の大叔父の甥っ子大好きっぷりについて滔滔と語ってきました。
和泉さん、BASARAやってないのに風魔小太郎と猿飛佐助のかっこよさについて聞いてくださって本当にありがとうございました。BASARAは本当に楽しいゲームですよねvvv
おかげさまで随分すっきりとしました(笑)
また次もよろしくお願いいたしますv
2008.01.16
山道強行軍
先日から少しずつ加沢記の訳を再開しています。
今、幸隆公が岩櫃城を攻めている真っ最中です。
その中で幸隆公が信綱公に採らせた進軍ルートがすごい・・・。
道無き道を山頂まで登ってさらに谷まで下るなんて・・・。
昌幸公には街道を通らせてるのに・・・。
吾妻渓谷は馬が通れないから、しかたないとは思うのですが・・・。
何かの本で昌幸以前の真田家は山中の地形を利用したゲリラ戦が得意と書いてあったのを心から納得しました。
ああいう作戦に慣れていれば、山歩きも得意になるさ!
それから唐沢杢之助の事で自分の勘違いを発見。
お猿(後の唐沢玄蕃)を昌幸公の前に連れて行ったのは、唐沢杢之助ではなくて杢之助の奥さんでした!
この時杢之助は大戸方面の守備に出かけていたのです。誰にも気付かれずに沢渡まで戻るのは非常に難しいのでした。
杢之助メモを治しておきました。
いろいろ勘違いしていた部分がわかって恥ずかしいです・・・。
杢之助年表を信じてしまった人がいたらすみませんでした。
今、幸隆公が岩櫃城を攻めている真っ最中です。
その中で幸隆公が信綱公に採らせた進軍ルートがすごい・・・。
道無き道を山頂まで登ってさらに谷まで下るなんて・・・。
昌幸公には街道を通らせてるのに・・・。
吾妻渓谷は馬が通れないから、しかたないとは思うのですが・・・。
何かの本で昌幸以前の真田家は山中の地形を利用したゲリラ戦が得意と書いてあったのを心から納得しました。
ああいう作戦に慣れていれば、山歩きも得意になるさ!
それから唐沢杢之助の事で自分の勘違いを発見。
お猿(後の唐沢玄蕃)を昌幸公の前に連れて行ったのは、唐沢杢之助ではなくて杢之助の奥さんでした!
この時杢之助は大戸方面の守備に出かけていたのです。誰にも気付かれずに沢渡まで戻るのは非常に難しいのでした。
杢之助メモを治しておきました。
いろいろ勘違いしていた部分がわかって恥ずかしいです・・・。
杢之助年表を信じてしまった人がいたらすみませんでした。
2007.11.26
妙心寺 大法院
先日の土曜日に「玉姫街」の和泉様と妙心寺 大法院へ行ってきましたv
このお寺も真田家の菩提寺でありまして、信幸公の御位牌があるのですねvv
秋と春の特別公開の時にしか入れないので、今回行く事ができてとてもラッキーでした。
大法院でお抹茶と蒸し羊羹を頂きながら
「蒸し羊羹なら昌幸公も口に出来ましたね〜v寒天の羊羹なら信幸公の時代ですね〜〜vv」
なんてお話をしてきました。

その後で、ゆっくりお庭を眺めながら信政君と二代目小通の話をしたり、信幸公が孫をどのくらい可愛がったのか想像したり、まったりと江戸初期の真田家についてお話を伺いましたv
さて、肝心の御位牌ですが
「本堂に御参りをすれば、信幸公にも御挨拶をしたことになりますから。」
との事で、実物を拝見することは叶いませんでした。
本堂の隣にある大きな箱が信幸公の御位牌かもしれない・・・と思いながら御挨拶を済ませました。
妙心寺には他にも石田三成公ゆかりのお寺や織田信長公のお墓や信玄公・勝頼公のお墓もあるのですが、どこのお寺も非公開であります。
お寺の外から
「この中に御館様のお墓が!」
と塀を眺めてきました。
妙心寺のあとで、二条城へ行き放鷹のイベントを見てきました。

現在残っている鷹狩りの流派の始まりは信州の祢津流なのだそうですvvv
そうです、幸隆公と一緒に上州へ逃げて、幸隆公と一緒に武田家へ仕官したあの祢津家の松軒雲さんが広めた流派ですよ!
いいですよね〜v真田の縁者と鷹vvv
放鷹のイベントはものすご〜〜〜〜〜〜くかっこよかったです!
鷹が獲物をキャッチする瞬間とか、ものすごい迫力なんですよ!!
一瞬の凄まじさというのでしょうか。素敵でしたvv
そして、鷹の尾羽についている鈴がとても可愛かったですvv
鷹の羽は一年に一度生え変わるのだそうです。
幸隆公も抜けた羽で特別な弓矢とか作ったりしたのかもしれませんね。
和泉様、いつもお誘いありがとうございますv
今回もいろんなお話ありがとうございましたvv
このお寺も真田家の菩提寺でありまして、信幸公の御位牌があるのですねvv
秋と春の特別公開の時にしか入れないので、今回行く事ができてとてもラッキーでした。
大法院でお抹茶と蒸し羊羹を頂きながら
「蒸し羊羹なら昌幸公も口に出来ましたね〜v寒天の羊羹なら信幸公の時代ですね〜〜vv」
なんてお話をしてきました。

その後で、ゆっくりお庭を眺めながら信政君と二代目小通の話をしたり、信幸公が孫をどのくらい可愛がったのか想像したり、まったりと江戸初期の真田家についてお話を伺いましたv
さて、肝心の御位牌ですが
「本堂に御参りをすれば、信幸公にも御挨拶をしたことになりますから。」
との事で、実物を拝見することは叶いませんでした。
本堂の隣にある大きな箱が信幸公の御位牌かもしれない・・・と思いながら御挨拶を済ませました。
妙心寺には他にも石田三成公ゆかりのお寺や織田信長公のお墓や信玄公・勝頼公のお墓もあるのですが、どこのお寺も非公開であります。
お寺の外から
「この中に御館様のお墓が!」
と塀を眺めてきました。
妙心寺のあとで、二条城へ行き放鷹のイベントを見てきました。

現在残っている鷹狩りの流派の始まりは信州の祢津流なのだそうですvvv
そうです、幸隆公と一緒に上州へ逃げて、幸隆公と一緒に武田家へ仕官したあの祢津家の松軒雲さんが広めた流派ですよ!
いいですよね〜v真田の縁者と鷹vvv
放鷹のイベントはものすご〜〜〜〜〜〜くかっこよかったです!
鷹が獲物をキャッチする瞬間とか、ものすごい迫力なんですよ!!
一瞬の凄まじさというのでしょうか。素敵でしたvv
そして、鷹の尾羽についている鈴がとても可愛かったですvv
鷹の羽は一年に一度生え変わるのだそうです。
幸隆公も抜けた羽で特別な弓矢とか作ったりしたのかもしれませんね。
和泉様、いつもお誘いありがとうございますv
今回もいろんなお話ありがとうございましたvv
2007.10.17
怪力かがり花
怪力の女性の話をもう一つ。
吾妻記より意訳
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
関ヶ原の合戦の直前の事です。
信幸公は徳川家康の方へ、昌幸公は石田三成の方へ着く事に決めて別れました。
白井まで戻ってきた昌幸公は沼田城へ「安中 作右衛門」を使いを出しました。
沼田城で留守を預かっていた侍達は評議の上で、御前様(小松姫)にすべて報告をしました。
さて、御前様(小松姫)は普段から「かがり花」という大力の女中をお傍近くに召抱えておりました。
この報告を受けた御前様(小松姫)は兼ねてから決めていた通りに、鎧を召した上に錦を召され長刀を持ち、かがり花をつれて広間まで出てきました。
かがり花は長刀を広間に突き立て、それを杖のようにして立ちました。
かがり花は
「作右衛門殿、ここにお入りなさい。」
と作右衛門の腕をしっかりと取り、一度締め絞りましたので作右衛門の手は五本の指の先から血が滴りました(まるで油を絞るような様子であったと言います)。
作右衛門は大層困り、
「離してください、かがり花殿。」
と言ったのですが、かがり花は
「これは座興ですのよ。」
と言って離してくれません。
そこへ御前様(小松姫)が言いました。
「大殿(昌幸)様が沼田城に立ち寄りたいと仰せの事、詳しくお聞きしました。
私は女子ですが、その昔の巴御前にも見劣りいたしません。ここへお入りになられるのならば、女中軍を率いて花をちらしてお目にかけましょう。
作右衛門、この事をよくよく大殿(昌幸)様へと伝えるのですよ。」
そうして、ようやく作右衛門はかがり花から解放されたのでした。
作右衛門は腕の皮が剥かれ、骨はくだけ、その上御前様(小松姫)の迫力に飲まれて萎縮し、まるで蛇の口から逃れたかのようにほうほうの体となって昌幸公の元へと帰りつきました。
作右衛門から御前様の言葉を聞いた昌幸公は一言も言葉を発せずに、岩櫃城を横目にさっさと信州へお帰りしたとの事です。
その後、沼田城の大広間ではかがり花が突き立てた長刀を抜こうと試みられたのですが結局抜けませんでした。
良くみると、その長刀は畳の下の板を突き通し、ねだ(床下の横木)の30〜40cmもの深い場所へ刺さっていたのでした。
しかたないので、長刀の柄を切り取って広間を治したのでした。
かがり花の大力はなによりも勝る御力と人々は恐れ驚いたそうです。
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初めて読んだ時に作右衛門を左衛門佐と読み間違えて「幸村」がひどい目にあったのだと思っていました(汗)
きちんと読んだらひどい目にあっていたのは安中さんでした。
小松姫が昌幸公を沼田から追い出す話は何パターンかあるのですが、私はこの話が一番好きです。
吾妻記より意訳
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関ヶ原の合戦の直前の事です。
信幸公は徳川家康の方へ、昌幸公は石田三成の方へ着く事に決めて別れました。
白井まで戻ってきた昌幸公は沼田城へ「安中 作右衛門」を使いを出しました。
沼田城で留守を預かっていた侍達は評議の上で、御前様(小松姫)にすべて報告をしました。
さて、御前様(小松姫)は普段から「かがり花」という大力の女中をお傍近くに召抱えておりました。
この報告を受けた御前様(小松姫)は兼ねてから決めていた通りに、鎧を召した上に錦を召され長刀を持ち、かがり花をつれて広間まで出てきました。
かがり花は長刀を広間に突き立て、それを杖のようにして立ちました。
かがり花は
「作右衛門殿、ここにお入りなさい。」
と作右衛門の腕をしっかりと取り、一度締め絞りましたので作右衛門の手は五本の指の先から血が滴りました(まるで油を絞るような様子であったと言います)。
作右衛門は大層困り、
「離してください、かがり花殿。」
と言ったのですが、かがり花は
「これは座興ですのよ。」
と言って離してくれません。
そこへ御前様(小松姫)が言いました。
「大殿(昌幸)様が沼田城に立ち寄りたいと仰せの事、詳しくお聞きしました。
私は女子ですが、その昔の巴御前にも見劣りいたしません。ここへお入りになられるのならば、女中軍を率いて花をちらしてお目にかけましょう。
作右衛門、この事をよくよく大殿(昌幸)様へと伝えるのですよ。」
そうして、ようやく作右衛門はかがり花から解放されたのでした。
作右衛門は腕の皮が剥かれ、骨はくだけ、その上御前様(小松姫)の迫力に飲まれて萎縮し、まるで蛇の口から逃れたかのようにほうほうの体となって昌幸公の元へと帰りつきました。
作右衛門から御前様の言葉を聞いた昌幸公は一言も言葉を発せずに、岩櫃城を横目にさっさと信州へお帰りしたとの事です。
その後、沼田城の大広間ではかがり花が突き立てた長刀を抜こうと試みられたのですが結局抜けませんでした。
良くみると、その長刀は畳の下の板を突き通し、ねだ(床下の横木)の30〜40cmもの深い場所へ刺さっていたのでした。
しかたないので、長刀の柄を切り取って広間を治したのでした。
かがり花の大力はなによりも勝る御力と人々は恐れ驚いたそうです。
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初めて読んだ時に作右衛門を左衛門佐と読み間違えて「幸村」がひどい目にあったのだと思っていました(汗)
きちんと読んだらひどい目にあっていたのは安中さんでした。
小松姫が昌幸公を沼田から追い出す話は何パターンかあるのですが、私はこの話が一番好きです。






