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永禄12年12月 蒲原城攻め関連の文書

信玄公が「勝頼が戦場に突っ込んでいって心底肝が冷えたよ怖かったよでも勝っちゃったよ不思議。」と書き送った書状と、同じ戦について真田幸綱・信綱父子に報告した書状。
読み比べると、勝頼様が戦場に突っ込むのは武田家では周知の事なんだなあと思えます。

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徳秀斎あての書状(笹本正治著 武田勝頼p28)

蒲原城を落とした事について早々に状況をお問合せくださり嬉しく思います。

最初は12月6日に蒲原城の宿に放火しました。
もう決まりきった儀式の様なものですが、四郎勝頼と甥の左馬助信豊は思慮が足らないので工夫も何もなく城へ攻め登りました。
本当に恐怖を感じましたが不思議な事に軍に勢いがつき敵方を崩し、城主の北条氏信兄弟をはじめ、清水・笠原・狩野介やそれに従う兇徒、総じて蒲原城に立て籠るすべての兵を残らず討ち捕らえてしまいました。

この蒲原城は街道の中でも一番道が険しく通過するのも難しい場所でありました。このように瞬く間に目的を達するなど、人間が出来る働きではあり得ません。
そればかりか、こちらの味方は一人も病気などすることも無く過ごしております。どうぞご安心ください。

12月10日 
                           信玄

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同じ戦場の話を真田幸綱・信綱父子に送った物

(信濃史料 巻13_3 52)

急いで知らせます。今日6日、蒲原城の城下に放火をした所、在城していた兵達が皆出兵してきて出くわしたので一戦を遂げ勝利を得、城主北条進三郎をはじめとして清水・狩野介を残らず討ち取り瞬く間に城を乗っ取りました。

本当に前代未聞の戦でした。

なお、蒲原城へは山県三郎兵衛昌景を入れます。
この文面のとおり、目的は達成したので安心するように。   恐惶謹言


  12月6日                信玄
 一徳斎
 真田源太左衛門殿
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天正18年4月20日 松井田城攻めの前に信幸兄上が裸攻めする羽目になった話

信濃史料より現代語訳しました。
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北陸道の総指揮官として前田筑前守利家と上杉喜平次景勝、そして関東の案内役として我ら親子が今度の戦の先陣を仰せつけられました。
我が軍は3月上旬に小県郡を出発し、残雪を踏み分け12日に軽井沢の陣に到着いたしました。

それから松井田城の見回りのため、愚息伊豆守が近習の侍を30人余り従えて碓氷峠を下り町の入口まで近づいた所、松井田城城代の大道寺新四郎配下の小隊を発見、なし崩しに戦いが始まりました。「昆」の兜をかぶった敵兵が城から7、800騎ほど出てきて三方向から攻め立てられ戦う事になったのです。

こちらは伊豆守を始めとしてどの兵士もみな真裸(甲冑を着ていない様子)で、弓も鉄砲一丁も持っておらず、頼みとする所の武器は太刀・長刀(なぎなた)・槍など、それらを限界まで使って攻め合い苦しんでいた所にその上、敵の依良入道宗源(信州佐久郡の住人)が手勢数十人を割き、坂本の民家に放火しこちらの退路を遮断しようとするのに気づきました。
そこで我が家の家来である吉田庄介と富沢主水助が正面から斬り込み、敵兵を悉く追い払い依良入道宗源を馬上より突き落とし首を討ち取りました。この勢いでもって士気も盛り返し敵に向かい、80人余りを討ち取り勝利を得ましたので残党は悉く敗軍となりました。
そのまま敵を城門の外まで攻め続けてから勝利の鬨の声を上げ、その後に伊豆守に北陸道の通路の平定を申しつけました。

今回討ち取った依良入道宗源という人物は甲・上・信の三州に知れ渡っている侍であり、この首を手土産として差し上げます。
詳しい事は使者の春原勘介と松沢五左衛門が口上にて申し述べますので、このむね是非ともご報告をしてください。 恐恐謹言

  天正18年4月20日
                           真田安房守昌幸
  浅野弾正少弼長政殿
  石田治部少輔三成殿

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お知らせ

12月半ばに発売されるすずき孔先生の漫画
「マンガで読む真田三代  すずき孔 (著), 平山 優 (監修) 」
の巻末につく人物事典・真田関連史跡ガイド・逸話集に校正として関わらせていただきました。
マンガで読む真田三代

わたしの名前「てるてる」も巻末にちょろっと載せていただけます。
本屋で見かけたら是非、お手にとって見てください!

初代お通宛て 信之書状

11月18日 おつう様

さなだ いつのかみより

お手紙にてお知らせいたします。折々のことを一筆申し上げます。
その後お元気にしていらっしゃいますでしょうか。私も今だに命を長らえていると申し上げます。
さてさて、我々はこのたび国替えの命令を受け引っ越す事になりました事を申し上げます。このお手紙が貴女様の御手に届く頃には川中島松代という所に移っている事でしょう。遠国でありながら都の周囲にも劣らないであろう場所です。ここは名所の多い場所でして、まずは『あかしの松の倉科の里』、ここは昔に西行法師が「信濃なる あかしの松のありながら なぞくらしなの里というらん」と歌を口ずさんだ伝わる場所です。その他にものぎわに近い『姨捨山』は名月の山で「更科の月」「田事(たごと)の月」と古来から歌に詠まれ、きりに花咲く井ノ上の山も、雪の降りそうな雲が晴れて行きそこから静かに現れる朝日山も、三国一の善光寺も、降れど積もらぬ淡雪の浅野と申す里々も、全てわれらの領土にございます。
それにしても、こうけん殿が御在世ならば貴女様と楽しみながら松代まで御下りしてくださいと申し上げる事が出来ましたのに、なんという事でしょう、このように成り果てた世の中で私と同等に昔の事を知り続ける人は死んでしまいました。朝も晩も涙ばかりを流しております。もはや国も町もそこに心が惹かれる事も楽しい事もございません。
どうかご推察くださってせめて可哀想だと想っていただきたく思っております。
申し上げたい事は山のようにございますがその思いは筆に残しておきます。

         かしこ
追伸
 
なおなお貴女様は昔から私を御存じでいらっしゃいますお優しいお人様でありますので心のままに書き綴ってしまい恥ずかしく思っております。もはやこんなつらい現実などいらないと考えてしまいますが子供の為と思い「露の命の消えぬほど(はかない命が終わるまで)」と思って世の中を渡っております。朝餉の煙のような心細さを(貴女様ならば)推し量ってくだされると思っています。

また申し上げます。私の元にはあまりあまり人材がおりませんので召し使う者共を少し都の人から欲しいと思っております。貴女様は肝煎(奉公人などを周旋する仕事)をなさっていらっしゃるのでとてもありがたく思っております。貴女様の御紹介で2~3人ほどこちらへ頂けませんか。気に入らない場合はまた京都へと送り返しますのでいいかげんな事をいう人では無いように頼み申し上げます。
いかに都の人であろうと、うつけものは嫌でございます。また、見た目の悪い者も嫌です。私が召し使う者が見苦しいと外聞が悪くなります。とにかく、貴女様が直接御覧になってぬるぬるとした人を選ばれることは無いと思います。

とにかく道硯と申す者の所で詳しく申し上げます。

この手紙は火にお入れ下さるようお願いいたします。とりとめもなく書き散らしたのでおかしな手紙になっております。

室賀合戦の事

こうして信州一国の土豪達は家康公へと従属いたしましたが、天正11年10月に真田昌幸公は信州一国を自分が従えようと企て、まず室賀信俊を討とうと一門の衆を一手に集めて室賀の館へ押し寄せました。すると室賀信俊は自ら打って出て、篠山において互いに容赦なく戦い郎党共を討ち取ったのちに双方引き上げました。翌日も真田昌幸が攻めてきたので室賀信俊が自ら真田昌幸の元へやってきて和睦を願い出ましたので、すぐに和睦となりました。

室賀信俊は真田昌幸に度々領土を力ずくで取られていることを無念に思い翌年の天正12年の6月に鳥居彦右衛門尉を通して徳川家康に申し上げた所、徳川家康公から
「なにとぞ計略を使って真田昌幸を討ち取るべし。」
とのお返事をいただき大いに喜びました。

室賀信俊は何度も何度も上田へ通い、真田昌幸にこまごまとした事まで親切にしました。

ある時、上田に上方から碁打ちの名人がやってきましたので真田昌幸は是非にと室賀信俊を招待しました。

真田昌幸を討ち取る好期がやってきたと思い、室賀信俊は家臣の室賀孫右衛門を鳥居彦右衛門の下へ使いにだしました。
「来月7日に真田昌幸の居城へ碁会に参りますのでその時に兵を出してくださいますよう。」
という謀の密使でした。

ところが、室賀孫右衛門は前々から真田昌幸の味方についておりましたのでそのまま上田へ行き、真田昌幸へ室賀と徳川の謀略を全て話しました。真田昌幸おは大いに喜び、室賀孫右衛門にご馳走を振舞ってから室賀信俊の下へと返しました。

室賀信俊は謀がうまく行きそうだと思い家来の桑那八之介と相沢五左衛門、堀田久兵衛尉などをつれて上田にやってきました。前々から準備が整えられておりましたので、書院の間に通されてそこで碁会が開かれました。その時、真田昌幸の家臣である長野舎人と木村渡右衛門が討手となり隣の部屋で太刀を抜き室賀信俊を冷酷に討ち取りました。この時、共に働いたのは祢津宮内大輔と丸子藤八郎と長岡寺、安楽寺などの家臣達でした。

別室で室賀信俊が討ち取られるのを聞いた桑那八之介と相沢五左衛門、堀田久兵衛尉太刀は書院の間に斬り入り戦いました。
桑那八之介が深手の傷をいくつも受けましたがそのうち三人は真田の家来達に捕らえられ、留めおかれました。いろいろあって三人は真田昌幸に仕える事になりました。

室賀の館にてこの知らせを聞いた室賀信俊の妻子は取る物も取り合えず甲州へと落ち延びていきました。

インタビュー一時避難

ザ・インタビューが閉鎖なさるようなので、真田家に関する回答だけここに一時避難させます。後で気力があったら一個ずつまとめるかも。

現在質問は ask.fm/sanadake_BOT で受け付けておりますのでよろしくお願いいたします。


・多くの史料を読んでらっしゃるようですが、その中で特に好きな史料などはありますか? それと個人的なことですが、まだ史料に手を出すまでは至ってないので、よければ背を押してくださると嬉しいです…
私も活字化された史料しか読んでいないのでまだまだです。
でも古文書は敷居が高すぎて。老後にでも挑戦したいですね(笑)

史料の中で一番好きなのは豊臣時代の慶長5年3月に昌幸公が信之公へ送った手紙ですね。
体調を崩した信之公を心から心配しているのがひしひしと伝わってきて、本当に長男が大事だったんだなあとニヤニヤしてしまいます。

史料というと難しそうですが、たとえば町の歴史史料館や民族史料館の入り口においてあるパンフレットや写真付きの冊子から読んで見るのはいかがでしょう。史料に丁寧な解説や現代語訳がついておりますのでとても分かりやすく、いろいろ想像しやすいです。
上田市の「真田氏史料集」や松代市の「松代」 中之条町の「中之条町歴史民族資料館 常設展示解説図録」 大坂城の「真田幸村と大坂の陣」 などの冊子を重宝しております。

また、図書館や大型書店などでちょっとマニアックな本棚を漁って見るのもオススメです。食べ物・着物・遊びなどの棚から室町時代以降の話が書いてあるものを探して読んでいくといろいろと楽しいですよv 私は和菓子の本や昔話の本が好きですねv

自分が何を知りたいのかはっきりさせると読みたいものもはっきりしてきますよv
ちなみに私は幸隆公の逸話が読みたくて真田家御事跡に手を出しました(笑)
幸隆公への萌えで古文も漢文もとても楽しくなりましたよv

無理はせずに歴史探索を楽しんでください。


・botさんは真田家の中に一番好きな人物はだれですか。
真田家は全員大好きです!と、言いたいところですが一番好きなのは幸隆公です。
真田家中興の祖!父祖伝来の地に帰ってきた男!得意技は調略であだ名は攻め弾正!かっこいい!!!

甲陽軍艦で忍者部隊を使ってお館様を助けてる幸隆公も好きですが、名将言行録で長野業政さんに「沼田取っちゃえ」と進められてさくっと沼田へいっちゃう幸隆公も好きですv
一番好きなのは「加沢記」の嶽山城攻めを指揮しているとき!

『真田 一徳斎 幸隆公は即座に諸将に下知を出し、自らは黒糸縅の鎧と鍬形を打った兜を身につけ三尺五寸(約110センチ)の太刀を穿き十文字の槍をさげ、荒井黒と名付けた名馬に白覆輪の鞍を置き、己を先駆けとして300騎9の兵を引き連れて美濃原の向こうにある仙蔵の城へと駆け上がり軍を指揮したのでした。』
この一文だけでもう7年萌え続けております。黒い鎧を身につけ黒馬に飛び乗り颯爽と山城へ駆け上る幸隆公、ああ、もう格好良すぎて涙がでます。(ちなみに大河ドラマ風林火山で幸隆公が黒の鎧で登場したときは思わず悲鳴をあげました。かっこよすぎました。NHKスタッフさんありがとう!)

難攻不落の尼飾城や砥石城も短期間で落としちゃうし、上杉謙信にも「調略では私の方が3か劣る」とか評されちゃうし、頭良すぎるでしょう!
諜報活動も得意でお館様が敵国の領主に「幸隆から話は聞いてるんだぜ?どう、降伏しない?」なんて手紙を書いてるんですよ!

武田家の家臣達にも「幸隆の所はいいよな~。息子がそろいもそろって優秀だし。」と言われてるので子育ても上手!

頭が良く、機を見るのに長け、行動力があり実行するだけの武力も持っている。きっと腹黒。代替安はいつも10個くらい用意してそう。そしてあふれる家族愛。素敵ですよね~vvvvvvv


二番目に好きなのは幸村です(笑)

・よろしければ真田信之公について語ってください!
わーい。久しぶりに真田関連のインタビューをいただきましたv
張り切って答えます。

信之兄上は、むっちゃ俺様気質だと思ってます。
俺の言うことが絶対。俺が正しい。
兵の士気を上手く高められなくて昌幸公に
「なんであんなにやる気の無い部隊を俺に回すんだよ!」
と文句つけて
「大馬鹿者!!!お前がこの間の戦で失敗したから兵が萎縮してんだ。信頼を回復するには時間がかかるというのもわからんのか!!!」
と怒られるぐらい俺様。

昌幸公に対しては考え無しに余計なことを言っては怒られてるイメージがあります(昌幸公も信繁公よりも信之公を可愛がっていたふしがあるので安心して父親に甘えてじゃれあえる事ができる父子だったと思います)。

そんな信之も徳川時代にはいってからは外面はおとなしくしていたようですが・・・昌幸公が死んだ後、何としても葬式を出したいと必死に幕府に働きかけたようで老中から
「おとなしくしてないと危ないですよ。」
と叱れらています。

それから年上の家臣が大好き。
矢沢三十郎頼康が病気で寝込んだときのお見舞いの手紙がかなりやさしい。
「貴方が元気でないと私も調子がでません。」的な事が延々とかかれてます。
出浦半兵衛親子も頼りにしていたようで出浦宛の書状が多い多い。
松代へ転封が決まったときの出浦さんへの手紙は泣けました。

年下の家臣からの人気は絶大で信之公の死後、仏門に入る若い衆も多かったとのこと。

お姉さんの村松殿も大事に思っていたようで、数は少ないですが姉上宛の手紙には
「心配しないでください。」
の言葉が多いです。

信繁公に対してはどうだったのかな・・・・・・。信繁公宛の手紙は残ってないし、大坂の陣であれだけ暴れられたらおおっぴらには色々言えない残せないだろうし。
信之兄上は下の弟達にはちょっと距離があるというか、冷たいというか、そんな印象です。

信之公の子供にたいしては・・・・・・・・・次男の信政との間は最悪ですね。信政が松代藩をおびやかすような事を度々しているのが悪いとは思うのですが・・・・息子がぐれるのは親の責任ですよ。

次女のたい(みつけ院)殿とは仲が良かったようで、贈り物の相談をしたり自分の老後の世話をしてもらったりしてます。

三男の信重にも苦労させられたようで。知行も無いのに家臣を抱えたいと言い出した三男に「駄目!」とお叱りの手紙を出しています。

長男との間は書状も逸話も殆ど残ってないので想像するしかないのですが・・・・・自分自身が嫡男として大事にされてきた人なので長男は大事にしてたんじゃないかな。

徳川家との関係はどうでしょうね。少なくとも3代~5代将軍は信之公のファンだったようですが、良く解らないのが2代目秀忠さん。
秀忠さんは徳川幕府創設の大事な時期の方なので「真田家だけにかまってられるか、こっちは忙しいんだ!!」
というイメージがあります。良く小説で言われるように憎んでいたとかはあまり無いのではと思っています。むしろ外様の割には優遇されてますし。

気になるのは一時お隣さんだった井伊家との関係かな。
出典不明だけど長男信吉と井伊直孝さんがラブラブだったって話もあるし、昌幸公の助命嘆願のときに本田家や井伊家が味方してくれたって話もあるし。
どんなくらい仲良しだったのか気になります。


そして忘れちゃいけない小松姫。king of 内助の功。良く出来たお嫁様ですね。
最近読んだ小松姫の書状が病気の家臣にたいして
「やいと(お灸)をしなさい。療養にはやいと(お灸)が一番です。」
という文面でして・・・・同じような手紙を別の家臣に信之も出してまして。
夫婦そろってお灸好きなんだなあと思いました。
この二人の間も書状が残っていませんが、書状を出さなくても良いくらい信頼しあってラブラブだったのだと信じています。


こんなものかな。
まとめると
信之公の印象・・・ファザコンな俺様
です。

・真田関連でおすすめのスポットがあれば教えて下さい。
おすすめスポットですか。
以前こちらで大体語ったのでよければ参考にしてください。


今まで行ったことがあるおススメ戦国史跡は? - sanadake - ザ・インタビューズ #theinterviews http://theinterviews.jp/sanadake/776038


これ以外ですと、大阪城周辺の冬の陣・夏の陣の遺跡の数々や、幸村達も食べたかもしれない当時のレシピそのままで作られている京都の和菓子だとかになりますかね。

特に妙心寺大峰院で出される蒸し羊羹はオススメ。
現在のような練り羊羹は江戸時代に入ってから開発された製法なので、幸村が大坂にいた頃は蒸し羊羹が普通だったのですよ。当時の味が楽しめます。


・真田太平記の「樋口角兵衛」はモデルがいたんですね。その「樋口四角兵衛」なんですが、大阪の陣まで信繁に仕えて戦後は信州に戻ったとあるのですが、大阪の陣で戦死はしなかったのでしょうか・逃亡とかしたってことでしょうか?
はい、樋口四角兵衛は大坂の陣では戦死しておりません。
大坂夏の陣が終わった後、上田に帰り『渡辺(とへん)』と名を改めました。
平安時代の英雄『渡辺 綱』に負けない武功を立てたぞ!と主張したかったようです。

真田家御事跡を編集した矢沢徳綱が言うには
「樋口四角兵衛の伝説は多いけど、省略するね。樋口家に代々言い伝えが伝わってるよ。」
だそうで・・・・・・。

ひょっとして松代の樋口家に伝わる「樋口家文言『樋口家譜略伝』(明治14年)」に大坂の陣後の話がもっとあるかもしれませんね。同じ苗字の他人の家かもしれませんので確証はありません。
寛永10年の家臣の石高帳(御事跡16巻 P264)に「樋口角兵衛 200石」とあるので松代で信幸に仕えていた可能性は高いですね。

御事跡に「大坂陣の時も君(信繁)に従い武功あり。落城後本国に帰った。」とありますので夏の陣で信繁隊で戦っていたと思います。

夏の陣で逃亡したかどうか。何パターンか妄想はできますが事実はわかりません。
私は次の二つのどちらかなあと。

① 信繁隊が壊滅後に雑兵や民衆にまぎれて逃亡。上田に帰る。
② 信繁隊が壊滅後に何気ない顔をして東軍の真田信吉隊に合流。一緒に帰る。

②は実際に信繁隊から信吉隊に合流して無事に故郷に帰ってる忍者がいるので可能性は高いかも。

信吉隊の戦死者リストは御事跡の17巻にあるのですが生き残りリストは存在しないので確認はとれないのですけどね。


・真田家に興味を持たれたきっかけはなんですか?
幼少時に本家のおじいさんだったかおばあさんに
「うちの一族の先祖は忍者だったんだよ~。」
と聞かされて、大きくなってから調べてみたら真田のお殿様に仕えていた下っ端だったと解ったのが最初でした。

あまりに先祖の足跡がわからなくて、これは幸隆・昌幸・信繁の行動を調べなければ解らない!この三人がかかわった戦なら先祖も参加してるはず!
と思い古書店へ。運よく群馬県史料集を手に入れて加沢記を見てみたら・・・・全然読めない・・・泣きながら辞書を引く毎日。

史料に飽きて『真田太平記』を読んで信幸兄上かっこええええええ!となり史料熱再燃。
史料仲間に出会い御事跡の存在を知る。
ドキドキしながら逸話を読む。
兄上の俺様!!『真田太平記』のトキメキを返せええええええ!

そんなわけで現在に至ります。

あ、もちろん信幸兄上も先祖の上司です。


戦国BASARAに真田家のキャラクターが増えるとしたら誰だと思いますか。
あ~これ、開発者ブログでもう真田家からはキャラが増えないって宣言されたらしいですね。
残念すぎる。もっと真田ファミリーを出してくれたらいいのに!!!

個人的には幸隆公と信幸兄上に出て欲しい!!!

BASARAにこの二人がPCで出たらという妄想はBASARA2が出た時に某所で叫びまくったのでそこからコピペしますね~。


~~~ここからコピー~~~

まずは幸隆公。
何と言っても「攻め弾正」なので、最強で最恐で最凶であって欲しいファン心(笑)

まずは見た目。
銀髪の細身の爺ちゃんで!
第一衣装は白の修験者の着物で。
第二衣装は黒の忍び装束で!小太郎のような羽が着いていたら大満足!!
(幸隆公は黒の鎧兜に黒馬で軍の指揮をとった事があるので黒は譲れないのです!!)

武器は仕込み杖(棒の先から鎖付の分銅が飛び出します)、もしくは巨大ヌンチャクで!

属性は「風」。なぜなら(鉄腕ダッシュで言っていたのですが)修験道に関係ある仏教のとある宗派では「黒は風を表す色」だからです。

BASARA技は白鳥神社の女神様が降臨。幸隆爺ちゃんのおでこにチューをすると半径5mの範囲に槍が降り注ぎます。濃姫のBASARA技と似ています。(幸隆公は白鳥神社の女神様にピンチを救われた逸話があるのです)

台詞は「真田一族同盟」さまのところからテンプレートをおかりして語ります。

◎武将選択時
・この隠居爺に御用ですかな

◎合戦選択時
・若いのと遊んでやるか
・さて、参りますか

◎バサラゲージが溜まった時
・いきますぞ

◎アイテムを獲得した時
・ありがたい

◎バサラ技発動時
・これも功徳

◎バサラ技終了時
・怨まれるな

◎敵武将を倒した時
・油断めされたな

◎多数の敵兵を倒した時
・まだまだ

◎門を突破した時
・随分ともろい守りで

◎敵拠点を制圧した時
・真田がいただいた

◎自軍の増援が来た時
・おお、ありがたい

◎戦況が有利になった時
・気を引き締めよ

◎戦況が不利になった時
・大丈夫だ。わしがいる。

◎体力が少なくなった時
・ちとこばらが空いたな

◎勝利イベント時
・人の和を斬ればたやすいものよ

◎天下統一した時
・真田の働き、お館さまに捧げましょう

◎ゲームオーバー
・わしが死んでも・・・真田は残る・・・

◎『ハンマー忘れた!』装備時
・おお、わしとしたことが

◎○○登場
北条氏政
・弟と息子が世話になったね

風魔小太郎
・素晴らしい腕をしている。どうだ、真田で仕えぬか。

織田信長
・礼を忘れた駄犬が。躾け直してくれる。

濃姫
・違う時、違う場所に生まれていればの

蘭丸
・元気の良い小童じゃの

松永久秀
(そなたからは・・・郷愁をいただこうか)
・ならば見返りにそなたの欲をもらおうか
(くくく・・・怖い怖い)

上杉謙信
・お館様は渡さぬ

直江兼続
・現実を見る気は・・・無いだろうな

かすが
・のう、上杉殿を連れてどこかへ行かんか

伊達政宗
・これはこれは、随分と可愛らしい竜だこと

片倉小十郎
・守り抜くとは良い心がけ

徳川家康
・子狸狩をはじめるか

本田忠勝
・しょせんカラクリ。人の知恵には勝てぬ。

いつき
・「巫女殿 我等の非道をお許しあれ。」
・「一度、御館様とご相談めされよ。決して悪いようにはいたしませぬ。」


次は信幸兄上。

キャラクターとして、重度の「ガ○ダムオタク」であって欲しい。某カエル軍曹とタメを貼れる位で。
属性や攻撃方法・武器などがまったく思いつかないのでストーリーをば妄想。

第一話
武田軍に攻めかかる徳川軍。
家康にたどり着くもホンダムに邪魔されてトドメをさせず。
家康とホンダムが飛び去った空を眺めてぼーっとする信幸。
幸村「兄上、いかがなされた。」
信幸「俺の理想があそこに・・・。」
こうして信幸はホンダムに近づくために徳川家へ出仕することを決めたのだった。

第二話 
徳川家への口利きを頼もうと長宗我部元親へお願いに来る信幸。
信幸「元親殿は家康殿と親しいと聞きました。なにとぞ私を徳川家に紹介してくだされ!!」
ひとしきりメカについての魅力を語り合った後に元親と友情が芽生える。
元親「そういや本田には娘がいるって話だぜ。その娘と恋仲にでもなればお前、本田の親戚だぞ。」

信幸の目が怪しく光るのであった。

第三話 
徳川家への献上品を探す信幸は珍しい物がたくさんあるというザビー城へ潜入。
ザビーを倒して見事南蛮のカラクリを手に入れるのであった。

第四話
徳川家に出仕を許してもらおうと徳川軍に急襲をかける信幸。
信幸「わたくし、どうしても家康様にお仕えいたした・・・・・本田どのおおおおおおおお!!!娘さんを私にください!!(土下座)」

こうして信幸は徳川家に仕える権利と本田家の婿の立場を手に入れたのでした。

第5話
兄上を呼び戻そうと徳川家にやってきた幸村。
信幸がどうしても渋るのでついにガチンコの兄弟喧嘩に。
『兄弟対決!!』
のでかいロゴが欲しい所。
最期に
幸村「兄上がそこまでお心を決めているのならば今回は諦めます。しかし、この世で一番の大名はお館さばああああなのです!!」
と去っていく幸村。
後年、ホンダムにそっくりの甥っ子が生まれたとかどうどか(笑)

ちなみに、幸村に猿飛佐助が付いてるんだから信幸には出浦盛清が付けばいいと思います!!

~~~コピーここまで~~~

BASARA2の時の妄想だから古いなあ。
3にいつきちゃんやザビーいないのに(笑)

この妄想でぐるぐるしてたころ、某蒼紅サイト様で理想のガンオタ兄上を見つけたのだけどあのサイト様まだやってるかなあ。
久しぶりに読みたくなりました(笑)


・秀忠公と伊豆守様は疎遠だったとの痛切でしたが、最近は秀忠公時代の真田家も徳川幕府譜代としてある程度優遇されていたという説があります。そこらへんについての見解をお聞かせください
真田家御事跡と真田家文書をひっくり返して元和2年(1616)家康の死去~寛永9年(1632)秀忠の死去までの間の史料を読んできました。


信濃史料集第16巻の大鋒院御事跡 巻の6~8に載っている信之公の幕府での政務がこの期間はスコーンと抜けているようなのです。
家康が生きている間は江戸の町を普請したり、取り潰した大名のお城の受け取りに行っていたりしているので幕府の申し付ける仕事にかかわっていた事は間違ないのですが・・・(家光の時代にもあれこれ呼び出されています)。

松代へ転封したから公務は免除されたのか、それとも信之を幕府から遠ざけていたのか、真田家側からの史料だけでは何とも判断できません。

私は未確認なのですが、信之の次男「真田 内記 信政」が分家させてもらい大名として身を立ててもらった元和8年(1622)に譜代大名の嫡子しか通されない『雁間』という部屋に通されたという話を聞いたことがあるのでもしもこの話が本当であれば秀忠の時代にも『譜代大名並』の扱いをされていたということになります。

(信之がいつから譜代大名しかなれない「帝鑑間詰め」の地位を手に入れたのかもはっきりはわかりませんでした)

御事跡によると将軍秀忠から信之への書状も何枚か残っているようです。その全てに秀忠の花押が書いてあるそうですのでかなり秀忠から礼を尽くされていたとは思います。
その中に一通だけ、秀忠が信之を案じている書状があります。

「それ以来連絡をしなかったので一筆申し上げます。内々に上洛するように申し付けていましたが、去年の冬からの病気が回復したとは言えどもいまだに登城できる体ではないでしょう。上洛は遅くなってもかまいません。これからもそちらの状態を連絡してください。

   3月9日     秀忠 花押
       真田伊豆守殿」

信之を見張りたかったのか、それともその身を案じていたのか。

個人的には、優遇とまでは行かなくても『信之』という人材を有効活用されていたのではないかと思っています。

・史料は主にどこで入手していらっしゃるのですか?
本を丸ごと欲しい時はインターネットで。
日本の古本屋 http://www.kosho.or.jp/servlet/top

を重宝しています。

たまに史料読み仲間から「うっかり2冊買っちゃったから1冊どう?」ともらったりすることも。

各市町村史や昔話・逸話などは室町時代中期~江戸時代初期が欲しいので図書館でひたすらコピーです。

論文は紀伊国屋やジュンク堂などの超大型書店の歴史コーナーや郷土史コーナーで手に入れることが多いです。それでもなかったら
・ 岩田書院  http://www.iwata-shoin.co.jp/
・ 思文閣   http://www.shibunkaku.co.jp/
から直接通販するか、古書市にでかけて出会えるまで数年単位で探します。

史料読み仲間は良く国会図書館にも出かけているようですが、私はまだ行った事がありません。

集めてざっとしか読んでない史料が多いのでじっくり読み込みたいと思いつつ、部屋の隅に積んどく状態になってしまっています・・・(反省)

・幸村について語ってください
ええと、BASARAか無双か真田太平記とかそういう指定が無いってことは自分の中の幸村像でいいのかな????

真田家御事跡を読んでいて思うのは「外面の良いやんちゃな男の子」。

試し切りをしすぎてもらった刀をことごとく駄目にしてるとか(研ぎに出せば良いものを)大谷さんからもらった刀を盗まれて怒り狂った挙句に樋口四角兵衛を放逐してしまったり、その後で昌幸パパから
「家臣を大事にしなきゃ駄目」
って怒られて憤慨して顔を真っ赤にしながら泣いちゃうとか(笑)

樋口四角兵衛を許した後で街で他人の喧嘩に首を突っ込むんですけどそのせいで樋口四角兵衛が怪我をするんですね。
そのことにびっくりしておろおろしている様子をみると、家臣達が自分に対して何か働きかけてくれるって事に慣れてないなあと思います。

家臣が自分の為に動いて当然って思っている信幸兄上とはそこが一番違うなあ。

信幸兄上は昌幸パパにぶーぶー文句たれたり割りと近しい立場で会話している逸話がいくつかあるのですが、幸村と昌幸パパの逸話だと幸村がいつも一歩引いてる感じがします。
幸村が登場すると敬語表現が多くなるので文章が硬く感じます。

江戸時代に作られたイメージも入っているのでしょうけど「跡取りではない=兄の臣下になる」教育をされて育ったのでしょうね。有名な「信繁は典厩様にあやかってつけた名前だ。」という逸話も本当なのかもしれません。

信幸兄上はお中元とか息子への贈り物を送り忘れて娘(たい殿)に叱られていたりするのですが、幸村は何かあるとすぐに家臣に褒美を与えていたりするので周囲にたいしては常にそつなく暮らす癖がついていたと思います。人質生活が長かったですからね~。周囲にあげられる物があったらすぐプレゼントして自分の評判を上げておく事が大事だったのでしょうね。


加沢記では幸村はものすごく影が薄いので上州の土豪達にはなじみのうすい若様だったんだろうな~。

昌幸パパや信幸兄上の世間でのイメージが強すぎて、大坂の陣がなければこの人は歴史に埋もれていたでしょうね。

それでもそれでも、「幸村が大阪城にいるから」と大阪城に駆けつけた人達もたくさんいました。人徳がある御仁であったと思います。

・今まで行ったことがあるおススメ戦国史跡は?
一般人向け
・岩櫃城
・真田本城
・月山富田城
・竹田城
・姫路城
・彦根城
整備されていて登りやすいですし、堀や土塁がしっかり残っています。
竹田城は石垣も残っていて風光明媚です。
姫路城や彦根城はお城そのものが残っているので楽しいです。

・武田神社
周囲の武家屋敷跡も含めてゆっくり巡るのがオススメ。
家臣団の家の配置に想像力をかきたてられます。


真田幸隆公のファン向け
・白鳥神社
幸隆公のご先祖様にあたる海野家の始祖が祭られています。幸隆公が上州へ落ち延びるときに助けてくれたのはここの女神様v

・羽尾城
上州落ちした幸隆公が暫くやっかいになっていたであろう羽尾氏のお城。すごく狭いです。

・仙蔵の城
黒馬・黒い鎧で幸隆公が駆け上ったお城。登山道が無いので登るのは危険。

・箕輪城
上州で幸隆公がお世話になった長野業政公のお城。保存状態が素晴らしいので城郭ファンにもオススメ。

・小諸城
現在残っているのは江戸時代の建物ですが、一時期幸隆公が城代だったということを考えると訪ねる価値あり。駅前の揚げ饅頭がうまい。

・砥石城
幸隆公のみが落としえた難攻不落の山城。後に昌幸や信之も走り回ったお城ですので真田ファンだったら行くべし。

・真田町の長谷寺
幸隆公が晃雲和尚のために立てたお寺。幸隆公のお墓もあります。


・尼飾城
幸隆公が落とした松代の要害。とにかく急峻な山なので登るのが大変。

・松代の川中島
甲陽軍艦片手にどの当たりに幸隆公が陣を張ったか探すのがとても楽しいvvvvv

・川原湯温泉
岩櫃城攻めのときにこの温泉の近くに本陣を置いているのできっと幸隆公も温泉に浸かったはず。古傷に湯がしみて泣きそうになったに違いない。痛む傷跡に湯本さんに河童の妙薬を塗りこまれて更に泣いたに違いない。



幸村のファン向け
・九度山の建物いろいろ
真田庵は絶対ですが、それよりも奥にある慈尊院や丹生官省符神社がオススメ。慈尊院の土塀は室町時代に作られた当時のままの様子が残っているので幸村も実際に見ているはず。ひょっとしたら触っているかも(笑)丹生官省符神社に幸村が刀を納めたという伝説もあるので本当かどうか知りたいです。

・丹生都比売神社
幸村が書状で「お腹壊したので行けません。また誘ってください。」と言っていた神社。
この場所に遊びに来たかったのだなあと感慨深かったです。が、あの真田家の次男坊の事です、こっそり家族連れで遊びに行ったに違いないと思っています。

・大阪城
現在の大阪城は徳川家が立て直した物を再現していますが、それでも大阪城は大阪城です。
天守閣の歴史博物館も充実していて楽しいです。

・真田丸跡
何も残っていませんが、周辺の地形で真田丸の在りし頃を想像することはできます。

・茶臼山
大坂冬の陣では家康が、夏の陣では幸村が本陣を敷きました。
小山の上に立つだけで感動できます。

・安井神社
幸村最期の地。


昌幸公のファン向け
・岩櫃城の麓の潜竜院跡
勝頼様をお迎えするために作った屋敷の跡がある。ちなみに屋敷の一部は東吾妻町の顕徳寺
に移築されたらしい。


信之公のファン向け
・仙人窟
信之公がかかわった戦の中では一番有名な場所ではなかろうか?500騎の武者が洞窟に隠れたという話だがあんな狭いところにそんなに隠れられるはずが無いと思う。


・伏見の屋敷跡
何も残ってないです。2件あったとされている信之公の屋敷跡ですが一件は川の底。もう一件は宮内庁管轄の林の中です(笑)ああ、この辺にお屋敷があったのね、と感動してきました。

・松代の大鋒寺
信之公が隠居暮らしを送った家の跡。この近所の池でとうかんすが釣り上げられました。



真田忍者が好きな人向け
・割田下総のお墓・出浦盛清のお墓・田村左次衛門清隆のお墓
   場所は内緒。

・水牢の跡
主に尋問に使われていたようです。

・鳥居峠
猿飛佐助が修行したという伝説がある。

・岩櫃城の天狗丸
忍者や修験者の溜り場だったそうな。

まだまだたくさんあるけどとりあえずはこんな所かな?
沼田城は公園になってるし、上田城は仙石氏が立て直しているのであまりオススメではありません。

いつか関が原や名古屋城にも行ってみたいですね。

BOTに小田原の役ツイート追加

小説「のぼうの城」が思ったよりも面白かったので真田家BOTに天正17~18年のツイートを追加しました。

小説には真田家は一切登場いたしません。史実では真田家は岩櫃城に矢沢頼綱を置き、昌幸・信之・幸村は京都から碓氷峠へ出陣し松井田城・箕輪城を落とした後に忍城攻めにもくわわっております。

碓氷峠や松井田城攻めの信之兄上はかっこいいのに、忍城攻めになったとたんにただの我儘っ子になってるのは何故?

信之「あそこの出丸(南の門下忍口)を落とそうぜ。俺なら出来るって。」
昌幸「止めておけ。」
信之「大丈夫大丈夫。(昌幸の制止を振り切って無理やり出陣)」
信之の狙う下忍口を守っていたのは酒巻靱負という若者でした。

酒巻靱負(22歳)vs真田信之(25歳)

何このピチピチ若い子対決(笑)
この戦い、信之側に大勢の戦死者を出しましたが何とか真田家が出丸を奪取しました。
あまりにひどい戦いぶりだったようで、その後しばらく真田家家臣は信之の指揮で戦うのを嫌がっていたようです。

小説「のぼうの城」では機転を利かせて石田三成軍を大敗させている酒巻靱負。映画「のぼうの城」でも大活躍をするようです。

あの小生意気な青年が俺様な兄上と戦ったのかと思うと…(笑)
真田家ファンは違う意味で楽しめます。オススメですよ「のぼうの城」

樋口四角兵衛の話

御事跡18巻 取捨録より

樋口四角兵衛という者がおりました。日本に3人といないであろう大ばか者でありました。どれほど馬鹿な男か、これから語りますのでどうぞお聞きください。

続きを読む

石田三成の書状

昨日は真田家文書の上巻に納められてる石田三成から真田信幸への書状をひたすら意訳して「真田家BOT」に放り込んでました。
真田家文書は買ったまま軽く眺めてただけだったんだけど、真面目に読んだらめっちゃ面白かったです。

信之兄さんが本田忠勝と石田三成を仲介して手紙の橋渡しをしてるんですけど、
(ああ、信幸兄さんが徳川家と豊臣家を取り持ってたのね。かっこいい!)
という思いと
(あ~あ、兄上両方からパシらされて(笑)可愛そう(笑))
という思いに挟まれて笑うべきなのか萌えるべきなのか良く分からなくなりました(苦笑)

やはり大谷吉継さんから昌幸パパへ送られた「茶道のお稽古ちゃんとやってる?」の書状が好きです。
もう大好きです(笑)
きっと昌幸パパは大慌てで茶道の復讐に励んだはず(大笑)

さて、加沢記に清野氏がもらった書状を追加しました。
信玄公がか~な~り気を使ってまして、
「奥信濃から帰ったばかりの所悪いんだけど上州まで一徳(幸隆公)を助けに行ってくんない?本当に悪いね。よろしく!」
って感じの書状でした。

清野氏って大きな勢力だったのかな?信濃衆は全然詳しくないので後で調べてみようかな~。

慶次

ネタを探すため、加沢記をぱらぱらしてたら本能寺の変の直後に木曽路で信幸兄上と前田慶次殿が出会ってた。

前田慶次殿が信幸兄上に
「あんたなんでこんな所いるの?今京都は信長が倒されてエライ事になってるんだぜ。さっさと自分の国に帰りな。」
って言ってた。という事は信幸兄上は京都へ向かってたのか??

っていうか、なんで二人とも木曽にいるの???????

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