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真田丸が最終回を迎えましたね。

当初はこちらのブログで感想を書いていく予定だった真田丸ですが、ツイッターで実況中継をしたり、放映後にたくさんの人の考察を読んだり、丸島先生の解説を読んだりしていたらすっかり満足してしまい、ブログのために感想を書く気持ちになれませんでした。

今までに無い大河ドラマでした。
最新の説が次々と投入され、既存の説は通説・伝説とうまい具合に混ぜらて、歴史の流れに沿って進んでいるのにまったくだれる事無く最後まで魅せられました。

全国各地で俳優さんや時代考証の先生方のトークショーや講演会も開催され、真田関係の一般書も山のように出版され、次々と繰り出される情報を消化し終わらないうちに次の真田丸がやってくる、そんな一年でした。

30日の総集編まで、積読してしまった本を開いたり、録画した真田丸を見返したりしてすごしたいと思います。
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お知らせ

12月半ばに発売されるすずき孔先生の漫画
「マンガで読む真田三代  すずき孔 (著), 平山 優 (監修) 」
の巻末につく人物事典・真田関連史跡ガイド・逸話集に校正として関わらせていただきました。
マンガで読む真田三代

わたしの名前「てるてる」も巻末にちょろっと載せていただけます。
本屋で見かけたら是非、お手にとって見てください!

初代お通宛て 信之書状

11月18日 おつう様

さなだ いつのかみより

お手紙にてお知らせいたします。折々のことを一筆申し上げます。
その後お元気にしていらっしゃいますでしょうか。私も今だに命を長らえていると申し上げます。
さてさて、我々はこのたび国替えの命令を受け引っ越す事になりました事を申し上げます。このお手紙が貴女様の御手に届く頃には川中島松代という所に移っている事でしょう。遠国でありながら都の周囲にも劣らないであろう場所です。ここは名所の多い場所でして、まずは『あかしの松の倉科の里』、ここは昔に西行法師が「信濃なる あかしの松のありながら なぞくらしなの里というらん」と歌を口ずさんだ伝わる場所です。その他にものぎわに近い『姨捨山』は名月の山で「更科の月」「田事(たごと)の月」と古来から歌に詠まれ、きりに花咲く井ノ上の山も、雪の降りそうな雲が晴れて行きそこから静かに現れる朝日山も、三国一の善光寺も、降れど積もらぬ淡雪の浅野と申す里々も、全てわれらの領土にございます。
それにしても、こうけん殿が御在世ならば貴女様と楽しみながら松代まで御下りしてくださいと申し上げる事が出来ましたのに、なんという事でしょう、このように成り果てた世の中で私と同等に昔の事を知り続ける人は死んでしまいました。朝も晩も涙ばかりを流しております。もはや国も町もそこに心が惹かれる事も楽しい事もございません。
どうかご推察くださってせめて可哀想だと想っていただきたく思っております。
申し上げたい事は山のようにございますがその思いは筆に残しておきます。

         かしこ
追伸
 
なおなお貴女様は昔から私を御存じでいらっしゃいますお優しいお人様でありますので心のままに書き綴ってしまい恥ずかしく思っております。もはやこんなつらい現実などいらないと考えてしまいますが子供の為と思い「露の命の消えぬほど(はかない命が終わるまで)」と思って世の中を渡っております。朝餉の煙のような心細さを(貴女様ならば)推し量ってくだされると思っています。

また申し上げます。私の元にはあまりあまり人材がおりませんので召し使う者共を少し都の人から欲しいと思っております。貴女様は肝煎(奉公人などを周旋する仕事)をなさっていらっしゃるのでとてもありがたく思っております。貴女様の御紹介で2~3人ほどこちらへ頂けませんか。気に入らない場合はまた京都へと送り返しますのでいいかげんな事をいう人では無いように頼み申し上げます。
いかに都の人であろうと、うつけものは嫌でございます。また、見た目の悪い者も嫌です。私が召し使う者が見苦しいと外聞が悪くなります。とにかく、貴女様が直接御覧になってぬるぬるとした人を選ばれることは無いと思います。

とにかく道硯と申す者の所で詳しく申し上げます。

この手紙は火にお入れ下さるようお願いいたします。とりとめもなく書き散らしたのでおかしな手紙になっております。

お恥ずかしながら

痔を患いました。

外痔核という、誰でも発症する可能性がある手術しなくても治る痔なのですが痛いです。とにかく痛いです。痛みがひどくて歩けないわ眠れないわで本当にまいりました。
医者に行って強烈は痛み止めと麻酔効果のある塗り薬をもらってなんとか生活しています。

だいたい1週間くらいで痛みは引くとの事なので、早く治れ早く治れと念じながら薬を飲んでいます。

はー、湯治に行きたい。

馬場美濃、風林火山の旗に文句をつける

正武将感状記(1700年代に武将の逸話を集めて書かれたもの。信憑性は殆ど無いがネタとしては大変に美味しい)より現代語訳

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
馬場が臣下の心得もわきまえず、主君の考えを慮る事もしないで言うことに、
「行軍の時に風の字を旗に入れてるの良くないと思う。風って始めは強風でもいずれ弱るし。朝の風は意気揚々とさせてくれるけど夕暮れの風は帰りたくなるし。だから行軍の旗に使うには危ない字だと思うんだけど。」

信玄は頷いて答えました。
「馬場の言うとおりだ。でもこの旗は先鋒隊に持たせて『疾いこと(速いこと)は良い事だ』と宣伝させるのだ。私が旗本達を率いてその風の速さに続いていくのだ。」

これを聞いて馬場は深く感じ入り
「この身をもって(お屋形様に)勝ちを悟らせましょう。」
と言いました。

このような問答には味わいがあり、他国では真似できない素晴らしいことでありました。

~~~~~~~~~~~~~~~~
甲陽軍鑑と違ってこちらの馬場美濃は空気を読まないわ生意気だわで、それを許す信玄公の器が大きい事を強調されているように思えます。

馬場美濃ご飯

甲陽軍鑑 石水寺物語より 馬場美濃守が武士についてご飯に例えて話している箇所を現代語訳しました。

~~~~~

さてまた、馬場美濃がご自身の見解で、身分や俸禄の高い武士や逆に身分や俸禄の低い武士について朝晩お与えになるご飯に例えておっしゃいました。

「下々の者たちがご飯を上手に炊くと、固めでもさらりとして一段と味の良さを楽しむことが出来る。まして、柔らかなご飯は当たり前のように美味しい美味しい。

また、下々の者達が下手に炊いたご飯は柔らかいかと思えばまるで武器のようだし、固いかと思えばぐしゃぐしゃしている。これは中の煮えぬ(中まで火の通っていない)ご飯である。

そんなわけだから、固い(頑固で強情な)人と積極的に親しくなろうとするのは良い事だ。人当たりの柔らかい人はさらに奥が深い、例えば綿で針を包んでいるような良い人だ。

さて、人によっては固い(頑固で強情な)人かと思えば嘘を付き、良い武士に嫉妬し、全てにおいて心得を持たず、こびへつらい、そのような有様で腕をひけらかし、さも腕前があるように事を運ぶ。こういう人を「中の煮えぬ人」と言うものだ。

それにつけてもここを良く信玄公はお考えになっていらっしゃるから、原美濃などに職務の権限を与えていらっしゃるのだと推測しているのだ。この原美濃殿は信玄家中の優れた武士であるので、原美濃が生きている間は武田の家中にて「美濃」と名乗るものはいなかった。
永禄7年(甲子)に原美濃が死去されてから、馬場民部もお屋形様の御意を得た上で「馬場美濃」になることができたのだ。

その上、馬場の軍の旗挿物である「黒御幣(くろおんべい)」は小畠入道(小畠 虎盛?)に「ちいの挿物」を願い出てうけ取ったのだ。我等はひとしお小畠山城殿(小畠虎盛)を信頼し尊敬しており、大勢を指揮するときに僅かながらでも作法を知っているようになったのも小畠入道のやり方を探り同じようにしてきたからだ。

さてまた、城取の心得が少しあるのは山本勘助入道道鬼の様々な話(雑談)から学んだものだ。

このようにたくさんの人々から学んできたのだ。」

と馬場美濃守が物語ったのでした。

働きに出ています。

職業訓練校も無事卒業し、先月末から短時間のパート勤務で働きにでております。

家族が狙ったとおりの規則正しい生活が遅れるようになり、毎週真田丸を見て大騒ぎをするくらいは元気にすごしています(笑)
こちらに感想はあげてはいませんが、毎週物凄く騒ぐのでついには
「真田丸見ているときだけは元気だね。」
と嫌味を言われる始末(苦笑)  しかしまあ、元気でいられる時間が増えるのは回復に向かう過程ではとても大事なので今後も騒ぐつもりであります(笑)
真田丸を通して人と話をする機会も増え、第一話二話の勝頼様から転びに転んで現在は武田家の馬場美濃守信春に嵌っております(笑)

気力体力に余裕があるときは気になる史料をひっくり返したり、思い切って甲陽軍鑑を読んでみたりと真田丸のおかげで歴史好きな自分が随分と戻ってきました。

このまま来年も真田丸続きませんかね。今年一年で終わらせるなんてもったいない。

室賀合戦の事

こうして信州一国の土豪達は家康公へと従属いたしましたが、天正11年10月に真田昌幸公は信州一国を自分が従えようと企て、まず室賀信俊を討とうと一門の衆を一手に集めて室賀の館へ押し寄せました。すると室賀信俊は自ら打って出て、篠山において互いに容赦なく戦い郎党共を討ち取ったのちに双方引き上げました。翌日も真田昌幸が攻めてきたので室賀信俊が自ら真田昌幸の元へやってきて和睦を願い出ましたので、すぐに和睦となりました。

室賀信俊は真田昌幸に度々領土を力ずくで取られていることを無念に思い翌年の天正12年の6月に鳥居彦右衛門尉を通して徳川家康に申し上げた所、徳川家康公から
「なにとぞ計略を使って真田昌幸を討ち取るべし。」
とのお返事をいただき大いに喜びました。

室賀信俊は何度も何度も上田へ通い、真田昌幸にこまごまとした事まで親切にしました。

ある時、上田に上方から碁打ちの名人がやってきましたので真田昌幸は是非にと室賀信俊を招待しました。

真田昌幸を討ち取る好期がやってきたと思い、室賀信俊は家臣の室賀孫右衛門を鳥居彦右衛門の下へ使いにだしました。
「来月7日に真田昌幸の居城へ碁会に参りますのでその時に兵を出してくださいますよう。」
という謀の密使でした。

ところが、室賀孫右衛門は前々から真田昌幸の味方についておりましたのでそのまま上田へ行き、真田昌幸へ室賀と徳川の謀略を全て話しました。真田昌幸おは大いに喜び、室賀孫右衛門にご馳走を振舞ってから室賀信俊の下へと返しました。

室賀信俊は謀がうまく行きそうだと思い家来の桑那八之介と相沢五左衛門、堀田久兵衛尉などをつれて上田にやってきました。前々から準備が整えられておりましたので、書院の間に通されてそこで碁会が開かれました。その時、真田昌幸の家臣である長野舎人と木村渡右衛門が討手となり隣の部屋で太刀を抜き室賀信俊を冷酷に討ち取りました。この時、共に働いたのは祢津宮内大輔と丸子藤八郎と長岡寺、安楽寺などの家臣達でした。

別室で室賀信俊が討ち取られるのを聞いた桑那八之介と相沢五左衛門、堀田久兵衛尉太刀は書院の間に斬り入り戦いました。
桑那八之介が深手の傷をいくつも受けましたがそのうち三人は真田の家来達に捕らえられ、留めおかれました。いろいろあって三人は真田昌幸に仕える事になりました。

室賀の館にてこの知らせを聞いた室賀信俊の妻子は取る物も取り合えず甲州へと落ち延びていきました。

試験終わりました。

とりあえず、これで少し時間が空くので久しぶりに趣味に没頭したいと思います。
まずは真田丸で人気上昇中の室賀さんの話を訳します。

インフルエンザで倒れました

去年末に予防接種を受けたので大丈夫だろうと思っていたのに、インフルエンザA型にかかり一週間ほど寝込みました。

この一週間のおかげで勉強が遅れてしまい、今月中に受ける予定の資格試験の合格がかなり危うくなりました。
もっと根を詰めて勉強したい、でもちょっと頑張ると疲労で倒れるという状態です。
今回の合格は諦めて、出来るところまで勉強を進めます。

もっと体力と若さが欲しいなあ。
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